というわけで、都内某所まで赴く。
別にわざわざ来ることもないような話だったのだが、顔を突き合わせて話をすることが重要なのだろう、たぶん。
時間が半端に余ったので、たまたま目に付いた特価本販売コーナーとやらを冷やかす。
冷やかすつもりが四冊も本を買ってしまった。3000円は超えていないのでジュンク堂で普通に本を買うよりは被害は少ない。
その後、新宿で知人の結婚式の二次会に参加。
なんかえらく怪し気な装飾の店が会場だったのだが、尻を据えて酒飲んだり飯食ったりしているだけなので普通の店と変わらず。
よく考えてみたら、新郎新婦とあんまり話をしなかったような気がする。私は何をしにいったんだろうか。
三次会のカラオケは、終電までいて帰るつもりだったのだが、ついついずるずるといてしまって結局徹夜で歌いまくり。
最近は肉体の衰えも激しく、声帯を制御できるキーがかなり減って来た。中音域が一番最初に制御不能になるのはどういうわけなのだろうか。覚えているつもりで忘れている曲も多数。これが老いというものか。
始発から二本目くらいの電車で帰って来る。
予定とは、本日から公開の「指輪物語」の鑑賞である。券は先週に前もって買ってある。
待ち合わせをしたはいいが、自動車で来る人間もいるので時間は定まらない。携帯電話で連絡を取りつつ、結構ぎりぎりで間に合う。普通の映画館だと間に合わないと入れなかったり立ち見になったりするが、ワーナーマイカルでは途中から観る羽目にはなるが、基本的に全席指定なので、座れないということはない。まぁ、間に合ったのだから関係ないのだが。
原作を今週いっぱいかけて読み直しておいたので、今回は原作との相違点や、字幕の駄目さ加減(というよりは、英語の台詞がちゃんとしているかどうか)のチェックが中心。新発見の事実もいくつかあり、何度も観ることが決して損にならない映画であると思う。
今日は前に座った馬鹿が最低で、持ち込みの飲み物を上映真っ最中にコンビニのビニール袋をガサガサいわせて取り出すわ、スクリーンに掛かるほど座高は高いわ(よほど背が高いか、変な座り方でもしていなければ、そんなことはあり得ないと思う)、途中で抜け出すわで何度殴ってやろうかと思ったことか。馬鹿は公共の場に出てくるな。
鑑賞後、一緒に観にいった友人達と「指輪」談義をしつつ夕食。楽しい楽しい。
しかし、去年のマシンでむちゃくちゃ速いぞフェラーリ。これより速いといわれている今年のマシンが入って来たらどんなことになるやら。
私はフェラーリ原理主義者であるわけなので、大歓迎なのだが。
VISOR Plutinumを落っことして見事に液晶を割ってしまったので、修理に出す。
一応、こういう状況も予測してさくらやの3年保証に入っていたのだが、保証されるのは購入価格の90%までとのこと。まさか修理で本体の価格より掛かるなんてことはないよな? その場合はPlutinumを買い直したいところだが、もう市場にはほとんど残っていないと思われるのが頭の痛いところではある。
私の父親は、古タイヤを回収して、それをまたタイヤの原料とする企業に勤めていた。
バブルが弾けて以降、一般世間でよく耳にするようになった「再資源化」ということを、人間が月に立つ前からやっていたのだ。
だから、実感を伴って良く聴かされていた。「再資源化したものは、元の資源より高価い」のである。
ゴムというものは植物が原料であるので、単純な機械化による収量の増加というものはなかなか実現できない。よって、円高が進行するまではそれなりに商売にはなっていたらしい。だが、それも1$=130円を切るとたちまち怪しくなった。
物の値段というのは、ほとんどが人件費である。需要と供給のバランスが取れていない場合にはその限りではないが、この場合はあまり考慮に入れる必要はないだろう。
再資源化された資源には、素の資源より確実に手間が掛かっている。再資源化を考慮に入れた製造を行う場合でも、それを考慮に入れない場合よりも製造に手間が掛かる。
つまり、もう一度使うことを考慮して製造するものや、繰り返し使うことを考慮に入れたものは、その場限りで使い捨てにするものよりも値段は高くなるのが一般的なのである。この傾向は、高度に工業化されていればいる程、高くなる。何故ならば、人件費が上がるからである。これが解消されるケースは、原料の希少性が大変に高い場合くらいなものだろう。
何が言いたいか。
再利用、再資源化は、資源の節約や環境負荷の低減には役立つ。しかし、その分だけ物の値段は上がることになる、ということである。
環境負荷の低減に役立つかどうかは、実は再資源化の方法による。普通は環境負荷を抑えようとする方が「手間が掛かる」ので、環境に負荷が掛からない方法を取った方が、物の値段は上がるだろう。
お手軽にやって地球環境を食い潰しながら我々はこれまでやって来た。21世紀を迎えて、ここで方向転換をした方がいいのではないか、という意見が聞かれるようになってきた。しかしそれにはちゃんと代償が伴うということを、ちゃんと理解している人はどれだけいるのだろう。同じ物により高い代価を支払うか、さもなくば得ているベネフィットのレベルを下げるか、なにか革命的な発明でもされない限りは、その二つに一つである。そこまで判っていて「再資源化」というお題目に賛成しているのか。お題目を唱えている方は、その現実から目をそらそうとはしていないか。
山のようにたまったビデオを昔のものから発掘して観ていっているのだが、その中にいつやったかもよく判らない「サムライ フィクション」があった。
脚本は普通の時代劇だと思う。画面構成が少し面白かったが、あんまり映画的でもないような。そもそも殺陣が下手なのでそれをカバーできていないと言うべきか。
白黒画面とか、いろいろこだわってそうな感じはするのだけど、それが効果を発揮しているとはあんまり思えない。至って普通の時代劇だと思って観れば、普通に面白いと言えると思うのだが。
こんなものが提出されているようだ。
まぁ、リンク先の見方も正直いってなんだかなぁ、という感じがしないでもないのだが、言論統制をやって幸せになったことがある国というのを寡聞にして知らないし、子供を盾に取って何かを主張するというのは、単に子育ての責任を放棄しているだけに思えるので、賛成する理由もないし、反対する理由には事欠かないのだが。
これ、大宮じゃどこにも置いてないよ。カード付きの別の奴ならちょろちょろ置いてあるんだけど。
ところで、「指輪物語」の原題は、THE LORD OF THE RINGSである。
最初の定冠詞を削るのはまぁ良い。しかし、Ringsの複数形を削ってしまっては意味が変わってしまうのだ。The Lord of The Ringsは、一つの指輪とも取れるし、冥王サウロンやフロドと取ることもできる。んが、The Lord of The Ringでは、冥王サウロンその人のみを指すことになってしまうのである。なぜなら、一つの指輪の所有者がいくら変わろうが、一つの指輪の主人は冥王サウロンその人以外には考えられないからである。これはいくら何でも拙かろう。最大の敵がタイトルの物語って一体……。原作にはフロドのことを「Lord of the Ring」だとピピンが讃え、ガンダルフに窘められるシーンがある。
だいたい、Fellowship of the Ring「旅の仲間」が邦題に含まれていないのはどういうわけか。まさかとは思うが、次は「ロードオブザリング2」とかセンスとは無縁の魂を持つ究極の野暮天が考え付くような邦題にするつもりじゃなかろうな。
さて、原作を未読の人が抱くであろう、当然とも思える疑問点がここで示されていたので、得意になって答えてみよう。
>なんで指輪を捨てに行くのはたまたま指輪を相続しただけのフロドじゃなきゃいけないんだろう。アラゴルンとかレゴラスに任せちゃいかんのだろうか。
アラゴルンが不適格なのは、力への執着が強い人間だから(人間の王達に贈られた九つの指輪は、全ての王達をその力へと執着させ、指輪の幽鬼へと変じさせてしまっている)。また、アラゴルンは自分の先祖のイシルドゥアが指輪を放棄しないという過ちを犯したことにコンプレックスを抱いているという描写が映画中にある。
エルフもまた、魔法に近しいが故に一つの指輪の力に抗い切れないという面を持っているはず。それは映画中のガラドリエルの奥方とフロドのやり取りからも判る。エルフは一つの指輪の所有者になってしまったら最後、使わずにはいられないのである。ドワーフも同様だろう。ドワーフには細工物に対する執着はエルフ以上にあるので、さらに不適格かも知れない。ただし、使わずに後生大事に仕舞い込んでおく可能性もなきにしもあらず。しかしそこに冥王が目を付けてしまったら一巻の終わり。
ホビットは、50年近く一つの指輪を所持し、しかもたびたび姿を消すために使うというハイリスクなことをやっていても(これは原作にしか描写されていないが)、精々がビルボ程度の影響しか一つの指輪からは受けないという、類い稀な種族なのである。
映画では一つの指輪の特性についての説明が全体的に不足がちであり、所有者を支配しようとし、なるべく自分を使わせるように誘惑し(一つの指輪は、使われればサウロンや指輪の幽鬼の目を引き付けることになる)、そしてサウロンの元へ還ろうとする、という性質が理解できない人が多かったのではないだろうか。
>それにガンダルフは鷹を呼べるんだったら、フロドを鷹に乗せてモルドールまで連れて行ってやれないのか。
鷲の王、風早彦グワイヒアは映画ではたまたま飛んできた蛾にガンダルフがメッセージを託して呼んだようにも見える。呼び掛けに答えるかどうかは、グワイヒアの都合によるので、いつでも呼び出せるかどうかは保証されていないはずである。
飛んでいかないのは、とんでもなく目立つから。指輪の放棄のための道行きでは、まず冥王サウロンに一つの指輪の所在地を知られないことが重要なのである。ガンダルフは存在しているだけで目立つので、派手に動き回るのは問題ないし、却って一つの指輪に対する冥王の注目をそらすという目的にもかなっていると思われる。中つ国の第三期(つまり、物語の時代のことであるが)で魔法を使うということは、あの「目」を引き付けるという大変リスクの伴う行為なのである。その点に於いて、原作にはないカラズラスでのサルマンとガンダルフの魔法合戦などというシーンは、物語の整合性を壊しかけてしまっている(カラズラスでは結局ガンダルフは魔法を使わざるを得ない状態に陥り、「だれか見ている者があれば、少なくともこのわしはかれらに姿を現わしたも同然じゃ」と言わしめている)。
>それから、なぜサムは友達のフロドに敬語で話しかけるのだろうか。
サムとフロドの関係は、ただの友達などではなく、ギャムジー家がバギンズ家に代々仕える庭師なので、主人と使用人の関係なのである。
映画ではホビット庄の描写が原作より薄いので分かりにくいが、バギンズ家とトゥック家、ブランディバック家は裕福な名家なのである。
いわばホビットの一行は、王族とその近親者、そして使用人という取り合わせなのである。
>アラゴルンはどうしてフロドたちが宿屋に来ることを知っていたのだろう。
映画では「たまたま居合わせた」か、アイゼンガルドに向かう前に予めガンダルフが言付けをしておいたと解釈するのが妥当だと思われる。アラゴルンがその時点ではモルドール側しか意識していなかったバギンズという名前を知っていたことからもこの辺りの事情を伺うことができる。山の下氏(映画字幕ではUnder Hillそのままだったが)というガンダルフがフロドに与えた偽名を知っていた点からも、ガンダルフとアラゴルンが予め連絡を取り合っていたことは推測できる。
ガンダルフとアラゴルンがあの時点で連絡を取り合っていなかったとしても、野伏(レンジャー)は、ゴンドール建国時の王族達(エルフ語でドゥナダンと呼ぶ)で、あの付近のモルドール勢力の活動を抑止するために働いているので、その手の動静には通じていても不思議ではない。
>イシルドゥアの剣はいつ折れて、なぜエルフの谷にあるのだろう。
人間とエルフの連合軍がモルドールの軍勢と戦った第一次「指輪戦争」で折れた(ちなみにその時にドワーフはモリアに立て篭ってしまい、連合に参加しなかった。それが現在のエルフとドワーフの反目の一因になっている)。映画では説明が足りないので判らないと思うが(シーンとしてはきちんと存在する)、イシルドゥアの剣ではなくイシルドゥアと共に戦い倒れたエレンディルの剣「ナルシル」である。その頃は人間とエルフはもっと密な関係を持っていたし、その剣はエルフによって鍛えられたものなので、裂け谷にあっても不自然ではない(ゴンドールは古い物の貯蔵にはあまり気持ちを振り向けないようだし)。映画中でガンダルフは再び一つの指輪が見い出されたことによって生じる暗黒時代を「second darkness」と言っているのだが、例によって字幕には反映されていない。
原作では「折れたる剣」は折れたままアラゴルンが所持していて、旅の仲間が裂け谷を出発する際に鍛え直されて「西方の焔」(アンドゥリル)と改名される。これは、「二つの塔」で向かう先々において、アラゴルンがゴンドールの王としての身の証を立てるために度々使用するはずなのだが、どうするつもりなのだろうか。
>アルウェンとアラゴルンは旧知の仲らしいけど、どこで知り合ったんだろう。
アラゴルンは昔、裂け谷の領主でありアルウェンの父であるエルロンドの養子だったことがある。アラゴルンは60〜80歳という、今の人間からすればとんでもない高齢である。もっとも、この頃のドゥナダンの寿命は200年程度だったので、今でいえば30過ぎ程度だが。フロドはホビット庄出発時に誕生日を迎えて33歳(ホビットが成人する歳)。
アルウェンとアラゴルンの物語は、追補編(ハードカバーの7巻。文庫には存在しない)に詳しい。ちなみに原作のアルウェンは普通の姫君で、決してあんなんじゃない。
>ガラドリエルは単にフロドを脅して仲間への疑念を植えつけただけに見えるけど、いったい何をしたかったのか。
エルフとはそういうものだから。「エルフにものを訊ねるな、好しと悪しきを共にいう」
ボロミアに一つの指輪の影響が出始めているのは、ロスロリエンに辿り着く前に描写されている。ガラドリエルの奥方は、それを指摘しただけで、別に間違ったことを言っていたり仲間の結束を破ろうとしていたわけではない。事実に基づいた助言を与えることは至極真っ当な行動だと思われる。
ラウロスの大瀑布でのフロドの心理描写は映画版では徹底的に足りない。フロドは仲間を信用していなかったわけではなく、これまでの道中で充分に愛着の湧いた仲間達を、危険と判っているモルドールへの道中に同行させたくなかっただけなのである。でなければ、サムやメリーやピピンさえ連れていこうとしなかった理由がなくなる。
ガラドリエルの奥方の描写も映画版では全然足りなくて、単なる怪しい人になってしまっているが、カットされた35分にロスロリエンを出発するときの宴と旅の仲間のめいめいへの贈り物についての描写が含まれているらしい。DVD版で復活する予定とか。「二つの塔」ではガラドリエルの奥方からの贈り物が大活躍するので、「旅の仲間」でそれがほとんど描写されなかったのはとても不安。
馳夫と韋駄天のどちらがstriderの訳語としてふさわしいかは、ここを参照のこと。
それなりに英語のヒアリングができる耳で聞いた限り、ビルボは自分の状態をガンダルフに説明する時に「thin」という言葉をしっかり使っていたのに「薄く引き延ばされた感じ」という字幕は表れなかった(「気力が薄れた」とかいういい加減な訳が付いていた)。あの字幕がヘタレなのはこの点からして明白である。要するに、物語全体を背景にした翻訳は行う気がなく、その場のコンテキストに合っていればそれで良し、と考えているのだろう。
字幕を手がかりにしてヒアリングを行い、字幕に突っ込みを入れるのは、ここ最近の私の密かな楽しみになっている。ニュース映像とかひどいのがあって笑わせてくれる。
「ハリーポッター」の方が、使われている英語が平易で発音も奇麗だったので聞き取り易かったのだが、やはり「字幕の制限」という言い訳では看過できない程の誤訳、訳出の省略が行われていた。例えば、図書館に掲示されていたRestrictedは、「閲覧制限」であって「閲覧禁止」では決してない。「教師専用」とでもすれば、対象層の子供達にも判るに違いない。「字幕の幽鬼」戸田奈津子にはファンタジーやSFを愛する心は絶対にない。早いところ死んで永久に引退していただきたい。引退してくれさえすれば死ねとまでは言うつもりはないが、死にでもしなければ永遠に引退するつもりがないんじゃないかという疑念が脳裏から離れないのである。
この世界というものは、身体をなるべく使わない方向で発展してきた(その代わり、我々は知恵を絞った)のだけれども、身体をほとんど使わずに済むようになってきた段階で、脳も使わない方向に向かっているのではないか。
それは危険な道だ。我々人間の存在理由を根底から覆す可能性を秘めている。
もちろん、下らない機械の都合によって、本来頭を使うべき方向ではない方向に頭を使わされるのは真っ平ごめんだ。しかし、何にも頭を使わないのはまずい。そりゃ、一部の娯楽にそういう要素があっても別に構わない。でも、世界の趨勢がそちらに傾いてしまうのは良くない。娯楽については頭を使わないことが普通になってしまったら、人生は面白くも何ともなくなってしまうのだ。
総体としての消費者は「頭を使いたくない!」と大合唱していることだろう。しかし、そこを逆手に取って頭を使わせてやるのが創作者の腕の見せ所である。そこで実体のない消費者の声に負けてはいけない。
問題は、クソ作品を作った奴のいいわけにこのお題目が使われることが往々にしてある(具体的にはFF Movieを作ったヒゲとか)、ということなのだが、それはちゃんとした篩さえ用意できれば解決する問題である。篩を引き受ける人が食っていけないかもしれない現状はなんとかする必要があるが。
MSがようやく初期型ペケ箱の不具合を認め、交換に応じるようだ。
MS日本法人のユーザを舐めきった最初の対応とその影響に恐れをなして慌てて覆す、という経緯は、今までさんざん見てきたので改めて言うことはない。現時点でのこの会社にコンシューマビジネスは無理だ、ということが露呈したに過ぎないし、それは暗黙とはいえ周知の事実だっただろう。
ネットワークゲームに限らずネットワークサービスというものは、アクセスが少なければ採算が取れず、アクセスが予想を超えてしまったらたちまちボトルネック部分の容量を超過してしまってたいがい全体のサービスが止まるという性質を持っている。その辺のノウハウをMSはどれだけ持っているのか。
PCユーザ向けの経験を、コンシューマユーザにそのまま当てはめることは危険きわまりない。PCユーザとコンシューマユーザに同じ論理が通用すると思ったら大間違いである。
MS日本法人は今回の騒動でそれを学習するまたとないチャンスを得たはずだが、生かせるかどうかは彼等の能力に掛かっている。生かせない方に100カノッサ(賭けが成立しません)。
念のために書いておくが、わざわざ「MS日本法人」と書き連ねているのは、そこら中で言われているゲイツ云々とは別の問題がMS日本法人には存在すると私が認識しているからである。まるで「虎の威を借る狐」のような印象。Appleとアップルの関係よりも問題の根は深いような気が個人的にはしている。
どうやら中国に先を越されそうな案配である。
「名を捨てて実を取れ」と思っている人が未だに日本には多くいそうだが、それは言っちゃ悪いが「発展途上国の発想」である。これから実を取ることがいくらでもできる見通しがあるなら、それでもいいのだが、これからの日本に実を取る余地がどれくらい残っているのだろうか。
昨日の日記を書くために「旅の仲間」をざっと読み返したのだが、一部、「ドゥネダイン」という表記が残っている部分を発見した。文庫版「旅の仲間」下1のP89、11行目。
新訳版は、元の発音に近いようにカタカナ語(これらはエルフ語に代表されるトールキンが創造した架空言語であり、これを訳してしまっては台無しになる。原書は、中つ国の共通語を英語に翻訳して書かれたという体裁を取っており、翻訳の際には英語の表記はなるべく訳し、その他の言語―具体的には、シンダリン、クェンヤ二つのエルフ語、ドワーフ語、モルドールの言葉など―の表記は翻訳しないことが推奨されている)を直してあるのだが、新訳版ではエルフ語で野伏=レンジャーを現わす言葉は「西の人間」を意味する「ドゥナダン」とされている。
ここだけ昔の発音が残っているのは、明らかに見落としだろう。7刷まで行って直っていないのは、誰も指摘していないのか、それとも直す気がないのか。直す余裕がないのか。まさかガンダルフのエルフ語が訛っているわけではあるまい。
ちなみに、一つの指輪を火に掛けると浮き出すあの文字列は、エルフの文字を使って表記されたモルドール語である。ドワーフ達は、いわゆるルーン文字を表記のために使う。モリアの坑道の入り口の扉や、バーリンの墓碑などに使われていた。
そういや、映画には指輪について全てを語っている例の詩が、一つの指輪に刻まれている部分を除いてさっぱり出てこないのだが、これには何か理由があるのだろうか?
SONYがエイベックスの発売するコピーガード付きCDに文句を言っているらしい。
何故か地方新聞の記事だし、URLからして数日で消えそうな感じなので、引用しておく。引用元は四国新聞社の記事。
---引用開始---
音楽大手のエイベックスが13日から順次発売する著作権保護を目指した「コピー防止機能付き音楽CD」が、CD開発元のソニーなどが定めた音楽CDの国際規格に適合していないことが7日分かった。
エイベックスは、同規格準拠を示す「コンパクトディスク(CD)−デジタルオーディオ(DA)」のロゴマークを初めて外して販売する異例の措置をとる。
同社はただ、「一般名詞化している」としてCDの名称は使う。ソニーは「(通常の)CDとは別物である以上、消費者が誤解しないよう分かりやすく表示すべきだ」と指摘している。
---引用終了---
SONYの言っていることは全くもってごもっとも。SONYはPhillips社と共同で規格を設立したのだから、それを守ろうとするのはごく当然である。CD-DAのロゴマークを、CD-DAではないS信号を記録したものに使わないのは、異例でも何でもない当然の処置。
というか、CD-DAのライセンス契約ってないの? こういう話が出てくるってことはないんだろうけど。
閑話休題。
コピーしようって奴は、何をしようがコピーするし、しない奴はなんも掛かってなくてもコピーしないのである。
そういう意味では、AVEX社は自分達の主要顧客層を、コピーガードしないとコピーを際限なくしまくる泥棒の集団であると看做していることになる。私はAVEXレーベルから出ているCDは買ったことがないし、多分これからも買わないからどうでもいい話なのだが。
昨日書いた「ドゥナダン」と「ドゥネダイン」の違いは、複数形と単数形の違いらしい……。
ドゥナダンだと単数、ドゥネダインだと複数。
うーむ、ちゃんと調べてから書けば良かった。ドゥネダインをgoogleで検索すれば一発で判るようなことなのに(ドゥナダンだと、なにかのゲームの種族名に使われているらしくて、そちらが引っ掛かってしまってすぐには判らない)。
そういえば、未だにジュンク堂で真面目に探していないのが災いしたか、SFジャパンを入手していないのだが、こういう風に怒っている人がいた。
なんというか、バブル崩壊以降の中島梓=栗本薫の仕事には見るべきものなし、というのは既に私の中では定理になっているので(証明するのがめんどくさいから公理にしておいた方がいいのだろうか)、「何を今さら」という気分なのだが、よく考えてみたら、実は中島梓や先日話題にした戸田奈津子に問題があるというよりは、そういう人々に仕事を持っていく側に問題があるのではないかという気がしてきた。
しかしながら、戸田奈津子には具体的な市場の支持が存在しない(なぜなら、戸田奈津子が字幕を担当した映画がヒットしようがしまいが、それは戸田奈津子個人の責任もしくは成果ではあり得ないからである)が、栗本薫には未だに早川書房の屋台骨の一翼を担っているという成果が存在しているのである。
最近の中島梓の著作というのは私はチェックしていないので知らないが、あの創作態度を維持している人間が、まともな評論家足り得るとは私にはどうしても思えない。人寄せパンダとしての役割を求めて敢えて仕事を持っていく、ということもあるとは思うが、その場合にはあんまり喋らせないようにしておくのは、みっともないところを見せないための鉄則ではないだろうか。仕事を発注する側が我々に送りだす情報の質を決めているという点を我々は見落としてはいないだろうか。
AERAの「日の丸ロケット2010年宇宙の旅」を読んだ。
ロシアのロケットがあんなに安いのは、核ミサイルの廃棄も兼ねているからなのではないかと私などは思ってしまうのだが、実際のところはどうなのだろうか? というか、破綻してるんだかしてないんだかよく判らないロシアの経済状態で、ドル建てで打ち上げ費用を語られても、いくらそれが実質的な指標だとはいえ、違和感を禁じ得ない。国の経済力が違い過ぎて、資源と貨幣価値のバランスが崩れているからである。
ISASの再利用ロケットとして紹介されているこれだが、これを第一宇宙速度であるところの10km/sまで持っていくのにはどうするつもりなんだろうか? まっすぐ上に進んでいけば、そのまま宇宙に行けると思っている人も多いだろうが、それでは「永遠にエンジンを吹かしていないと落ちてきてしまう」のである。現在稼働している宇宙システムがおしなべてでっかいのは「落ちてこないようにするため」なのである。
だから、こいつは降りてくる時の実験にはなっていても、その前段階であるところの上に昇るための実験にはなっていないと思うのである。これが動いている映像を最初に見たときはそうは思わなかったのだが、「人類月に立つ」("FROM THE EARTH TO THE MOON")を見た後では、ドラマに登場した(そしてアームストロングが操縦をしくって壊した)月着陸船のシミュレータに見えてしまうのである。もちろん、あちらはエンジンがジェットで、こちらは液水液酸ロケットエンジンであることは承知している。
それにしたって、これの到達高度がいくら高くなろうが、今普通に地球の周りを飛んでいる宇宙船にはなり得ないのだ。これは確かにISSの軌道の高度までは達することができるかもしれないが、これに乗ってもISSには辿り着くことはできない。
ISASのページをちょっと探してみたのだけれど、10km/sに到達させるための方法論は見つからなかった(どうも今現在、一部日本語ページのサーバが落ちているようである)。というよりはNASDAがH-IIAで公開しているレベルの情報(実験機の諸元等)は載ってないんじゃないかと思うんだけど、単に私の探し方が悪いのだろうか。
サイトに載っている動画が、NASDAと違ってストリーミングじゃないところは有り難いけれども。
閑話休題。
記事は、我々日本人に人を宇宙に送り出すだけの覚悟があるか、と結んでいるのだが、ちょっと失敗するだけで過剰なネガティブキャンペーンを張るマスコミにそんなこと言われたかないわい。腐っても一面の焼け野原から世界第二位の経済大国まで登り詰めた国にできない筈はない。やればできるのだ。逆をいえば、やらなきゃできる筈もない。
やる必要がない、と言っている人には、その予算を使った他の明確なビジョンがあるのか、と問いたい。あなた方が宇宙開発に対して求めているのだから、そちらに同じものを要求したっていいだろう。