02年3月下旬の世迷い言


2002/03/31

 3月にあったことややったことをまとめてつらつらと。

 上遠野浩平「ビートのディシプリン SIDE 1 Exile」(電撃文庫)[bk1で購入]読了。
 電撃hpでの連載である。私はこれと秋山瑞人と田中哲弥と時雨沢恵一の書いたものだけは読むようにしているので(これは、雑誌のうちの3割も読んでいないということを示すが)、再読になるのだが、面白い。
 作者もあとがきで書いているが、この話の登場人物たちは、一部の例外を除いてほとんど常に「迷っている」。その点が、同日に発売されて先日読了した時雨沢恵一「アリソン」と違う点なのだろう。
 「アリソン」の登場人物たちは、迷わない。少なくとも、私の目には迷っているように映らない。「迷っているような描写」があったとしても、それは物語や状況の必然から、そこで迷うことが正しい行動なので迷っているように見えるのだ。
 この世界で迷いを持たずに生きていくことは、普通できない。だからこそ、我々が普段接しているのと同じレベルで世界や状況の理不尽さに由来する二律背反(とは限らないのだけれども)に悩んでいる登場人物には素直に感情移入できるのだろう。
 時雨沢恵一のこの人物の薄さは、味でもあり好き嫌いの分かれるところでもあるだろう。少なくとも、キャラを立てて読者に感情移入させることを第一義とするライトノベルには実は向いていないのかも知れない。

 埼京線通勤快速はむちゃくちゃ混むことが判明。
 やはり現状では湘南新宿ラインが一番空いていて楽である。これも、その存在があまり浸透していないからこそなのだろう、多分。大宮、赤羽から池袋、新宿に行くなら、別に埼京線も湘南新宿ラインも、どちらを利用してもほぼ同じだと思われるからである。
 しかし、湘南新宿ラインを使うと、現状では早く着きすぎるか(当然、家を出る時間も早くなる)遅く着いてしまうかのどちらかなのである。もしかして空いているのはこのせいか?

 「「世間」の現象学」(青弓社)[bk1で購入]読了。
 この本の内容はごく簡単である。「日本には世間はあっても社会はない」「世間は自分自身の内部から発生するものなので、客観的な観察では捕らえきれない」「現象学は主観事象を捉えることを第一義とする学問なので、世間を分析するには現象学的アプローチが有効である」という主張を、様々な論文の引用や著者の体験などを使用して手を変え品を変え説明している。
 だから、読者は日本社会に存在する世間という無形の実体の存在は素直に納得できると思う。しかし、それ以上踏み込んだ議論はされていないし、著者の世間に対する態度も明確に説明はされていない。だから、この本は世間というものに対する現象学的アプローチの入門書、以上でも以下でもないと思う。著者が持っている筈の、世間というものに対する評価は、この本ではまったく提示されていない。それを始めると限がないので敢えて削ったのかもしれない。
 そこが食い足りないと考える人間は、現象学やその他の世間に関するアプローチを猟渉して、自分なりの結論を出すしかないのだと思う。
 日本に社会がないのは、社会を構成する個人がないからだと著者は断ずる。そして個人の成立には「告解」という制度を以ってそれまで西欧に存在していた世間を個人に解体したローマンカソリック(本書の中では単純に「キリスト教」とされているが、文脈から言って明らかにローマンカソリックのみのことを指していると思われる。少なくとも正教の存在は無視している)の存在が必要不可欠だったとし、日本ではローマンカソリック的世間の解体を行わずに社会や個人といった概念のみを輸入してしまったがゆえに、学問的に日本人の生活世界を説明することはできないという。しかしながら、本書で提示されているのはそこまでであり、日本人に個人という概念を根付かせるためにはどうすれば良いのか、日本人が世間という生活世界を維持していくなら、それを学問的に眺めるにはどうすれば良いかについては何も提示されない。
 私の個人的体験から言えば、私は自分自身は独立した個人だと思っていた時期は少なくとも一度はあったと思う。その認識と世間として動く生活世界の間に生じる齟齬による「生きにくさ」を感じたことはあると思う。というよりは、一時期感じていた「生きにくさ」を説明するのにそのモデルがちょうど良いと感じる、というべきか。
 その「生きにくさ」を解消する手段として、私は自分にとっての世間を縮小させる方向を目指した。だから、世間と私の間の干渉というか衝突というか、とにかく「生きにくさ」の原因となっていたであろうものは、今のところは存在しない。だから、私個人は日本には社会が存在せずに世間しか存在しなくても、別に困らないのである(将来困るかもしれないが)。

 まさか四六時中モニタを眺めているためとは思えないが、ここ二週間はとても疲れている。特に目の疲れが激しく、夜になると頭痛がし、左右の目の焦点調節をするのが困難になり、近くにあるものを集中して眺めるのが難しくなる。つまりは、本を読んだりコンピュータ画面に表示されている文章を読んだり、ゲームをやったりするのが辛くなる。本は読んで読めないわけではないが、右目だけを使って読むことになる(右目のほうが乱視の度合いが低いので)。眼鏡を使えば左右の視力の違いはある程度矯正されるのだが、それはそれで疲れるので、日常生活において私は眼鏡を掛けないことのほうが多い。
 今週は週の半ばに祝日があったので何とか乗り切ることもできたが、通常のウィークディが二週間続いていたらどうなっていたか。考えるだけでも恐ろしい。
 最初の一週間の前半は、腰に疲れが来ていたのだが、どういうわけか腰と背中の疲れは去り、その代わりにやってきたのが頭痛と視界のずれだった。
 たぶんそのおかげで風邪を引いてしまったし、家にいる時間は休息しているか(ここでいう休息とはすなわち眠っていることに他ならない)、もしくは身体の不調を訴える不快感を我慢しながら、遊ぶかのいずれかである。本当はずっと眠っているべきなのだろうが、眠れないこともあるし、生活リズムを朝型にするために、夜以外にはあまり眠りたくない気持ちもある。
 それゆえ、家にいる時間は眠っていて何も感じないかそれとも不快感を常に感じているかの二つに一つであり、短絡的に考えると、家にいることは苦痛をもたらすことになってしまう。これはかなり嫌な感じだ。
 これほどまでに疲れを感じる原因がどこにあるのか、私自身掴みきれていないので、しばらくは歯を食いしばって耐えるしか方法はなさそうである。それが長期的に良いことなのか悪いことなのかは、敢えて判断を保留しなければ立ち行かない。

 コミックビーム5月号の「幽玄漫玉日記」に記されている心理的葛藤が、私の得たそれにあまりにも酷似していて、なるほど、鬱というものは脳の機能不全と扱ってよいものであるということを再確認する。
 悪く言えばあまりにステロタイプ。違う人間が、ここまで同じような感情や思考過程を辿ることに驚きを覚える。結局、言語化できる部分しか紙面には表現されていないのだから、同じものに見えて実は違うものである可能性は否定しきれるものではないけれど。

 埼京線新宿行きがむちゃくちゃ混む理由は、通勤時間帯でもあるにも関わらず、その前の通勤快速恵比寿行きから10分近く間が開くことが原因だと判明。そらまあ、普段は5分間隔で運転しているものが10分間隔になれば、通常の倍混むのは当然である。
 赤羽から先は快速だろうが各駅停車であろうが止まる駅は同じ(湘南新宿ラインは違うが)なので、この間の空き方が何を起因としているかは謎。先が詰まっているということはありえないので、たぶん列車のスケジューリングに起因するものだろう。

 どうもCarbonアプリケーションの振る舞いがおかしいと思っていたら、どうもmouse_downイベントがきちんと拾えていないようなのである。
 たとえば、最も普及していると考えられるCarbonアプリケーションであるところのInternet Explorerで検証してみると、mouse_downイベントが一定時間以上発生すると出るはずのコンテキストメニューがなかなか出ない。ここでちょっとだけマウスカーソルを動かしてやると、mouse_moveイベントが発生し、その移動量がある範囲内に収まっているとコンテキストメニューが表示される(これは、要するに人間の手が操作するものに対して当然与えるべき「遊び」の範囲である)。
 「お気に入り」の項目を並べ替えようとしている時に、Drag & Dropで項目の入れ替えを行うのだが、お気に入りに登録されている項目が多いと一画面上には表示しきれず、スクロールすることになる。通常は、アイテムをDragしてリストの端まで持っていくと、自動的にスクロールするはずなのだが、IEはスクロールしてくれない。ここで、ドラッグを保持しつつマウスカーソルを左右に動かしてやると、とたんにスクロールを始める。これもmouse_moveイベントが飛んでいるのだろう。


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