02年7月中旬の世迷い言


2002/07/12

 私は自分がある分野では非常に潔癖症であることを自覚している。
 それと同時に、潔癖症であることが、時には自分や周囲にとって不利に働くことも知っている。
 しかし、その不利を敢えて通すことが、俗な表現をすれば格好いいことであるとも思っている。これは日本人の誰にもある程度は共通した感覚なのではないかと思う。
 そういう潔癖さや几帳面さが発揮される分野の広さが、日本人の特性であると思う。特性、と敢えて書いたのは、それが有利に働くこともあれば不利に働くこともあるからである。
 私は先月行なわれていたワールドカップのゲーム自体にはほとんど興味がなかった。会社でわざわざ普段は見ることのないTVをセットアップして観戦していた人たちがいたが、私はロシア戦は半分くらい見たけれどもトルコ戦は全く見ないで作業を続けていた。
 しかし、ネットワーク世界で繰り広げられた韓国サッカーへの疑惑追及に関してはかなりはまり込んで情報収集をやった。
 このような軋轢は何故生じるのだろう、と考えたときに、この潔癖であるという性質が頭に浮かんだ。
 韓国サッカー疑惑に反応した人たちは、サッカーに対して潔癖なのだと思う。だから、自分たちのやりたいことをやりたいようにやった韓国サッカー界の行動に不快感を覚えるし、それをまともに取り上げないマスコミにはもっと不快感を覚えるのだ。
 TPOをわきまえて、自分の潔癖な部分を抑えることができるのが大人だと思う。そういう意味ではマスコミの今回の対応は大人の対応だっただろう。しかし、なんでもかんでも抑え込んでしまったら、それはそれで具合が悪いだろう。ジャーナリズムというのは、ある意味大人の対応とは対極に位置するものではないのか。
 それはともかくとして、私を省みたり他の人々の行動を観察したりすると、どうも日本人は潔癖症であると同時に無意識に相手にも潔癖症であることを要求する(もしくは相手も潔癖症であるという期待をしている)ように思える。
 交通教則をやると必ず言われるのだが、自分が注意をしているからといって相手も注意しているとは限らない、という言葉である(というか、私は平均よりもかなり交通教則寄りの運転をする人間だと思うので、私から見ると世の中には衝突(=交通事故)は存在しないと考えている人間ばかりに見える。これは自動車、自転車、歩行者全てにおいてである)。
 つまりは、自分が潔癖であることはそれほど軋轢の原因にはならない(と思う)。相手に潔癖であることを期待することが軋轢の原因なのではないか。
 これは、世の中の軋轢のかなり広い範囲に敷衍できるような気がするがどうだろうか。なにそんなことは当たり前だそうですかそうですね。

 電車が遅れるのは、様々な要因が絡み合っているためにほとんど不可抗力的に起きるのだから、いまさら遅れること自体に文句を言っても始まらない。そもそも、文句を言えば遅れなくなったり遅れている運行が突然早くなったりはしないのだから、文句を言ってみても仕方がない。
 しかしだ。ダイヤに遅れが生じたときに、駅の電光掲示板に嘘が表示されるのはいくらなんでも許容できない。
 この嘘というのは、遅れが生じているのに正常なダイヤが表示し続けられるという性質のものではない。いつもの運行ダイヤとは明らかに異なる情報が表示されているのに、それが出鱈目ということなのである。
 遅れているのだから時間くらいが正確でなくても文句を言うにはあたらないだろうと思う人もいるだろう。私もそう思う。通常は、発射時刻等の情報がおかしくても、列車の運行順番自体に間違いがなければそれで事足りる。だからそのくらいの間違いを私は嘘と呼ぶつもりはない。
 通常、電光掲示板には列車の発車時刻と発車番線と行き先と種別(各駅停車、快速など)が表示されている。時刻が間違っていたとしても、次に発車する列車は快速で21番線からの発車となるなどという情報は得ることができるので、それに従って移動するホームを決定することになる。
 しかし、いざそのホームに行ってみたら、行き先の違う各駅停車がやってきたら、これはもう嘘が表示されていると言ってしまって間違いだということにはなるまい。
 現在、大抵の駅ではダイヤが乱れてしまった場合にはそのことを告げる文章がスクロールするようになっていて、実際にいつ列車がやってくるかは駅員のアナウンスに頼るほかはない。駅員が正しい情報を把握しているかどうかという問題もあって、これがベストの解決策ではないと思われるが、少なくとも嘘が表示されているよりはいいだろう。嘘が表示されている場合、一度その嘘の情報に騙されるまで、正しい情報を他のルートから得なければならないということに気づけないことになるからだ。
 ちなみにこれはJR大宮駅での話であって、この他にも大宮駅の電光掲示板の運用ルールには首を傾げざるを得ない点がある。
 高崎線や宇都宮線のホームから埼京線のホームは少し離れた場所にある。直線距離では100mに満たないだろうが、階段をつづら折れに下りて地下に行かなければならないので、実際に歩く距離は100mを少し超えているのではないかと思う。
 で、これは最近の一般的傾向としてどの駅でも実施されていることだが、電光掲示板の表示を実際に列車が発車するよりもずいぶん前に消してしまう。列車が到着したくらいのタイミングで消しているのではないだろうか。これは、駆け込み乗車の防止という観点でうなづけるものである。
 しかし、埼京線に関してはそのルールが適用されていない。地上二階に相当するコンコースから少なくとも地下一階に相当するホームまで下りていかなければならないのに、列車が発車するまで表示が消えないのだ。
 なぜこのような運用ルールの齟齬があるのか。半端な時期に新規に導入されたシステムが統一されていない、というのが単純な解だが、ならばそれらのシステムの設定は同一にできないのか? 湘南新宿ラインなどといういろいろな意味で傍迷惑な代物が出来上がった以上、埼京線と高崎線、宇都宮線の時刻表を天秤に掛けるという事態は必ず発生するのだ。あるサービスに対する運用システムの対応が一定していないなら、そのようなサービスは導入しない方がマシである。


2002/07/16

 台風一過、の筈なのだが、薄雲が掛かっていたりしてなんかすっきりしない。
 関東地方ではプチカタストロフィを感じさせるほどの風雨でもなかったし。
 電車が遅れたりしないのだからこっちのほうがいいのだけど。
 と思ったら、薄曇りだったのはちょうど昼飯を食いに外へ出た一時期だけだったらしい。すぐに晴天になり、気温はかなり上がったようだ(なにぶん、室内で窓に背を向けて作業をしているもので、人工的な環境しか目に入ってこないのだ)。

 メールで地図もらったら、なんとパワーポイントのデータだったので初めて不承不承パワーポイントを起動することになる。
 もちろん、単純にプリントアウトするだけの話なのだが、ツールバーのプリントボタンを押すと、プリントダイアログが表示されず、プリントしているかどうかの情報も全く表示されないというあきれ果てたユーザインタフェースデザインのおかげで無駄に3枚も出力してしまった。
 やはりMSは自社製品を自分で使っている奴が皆無なのだろう。これに文句が出ないはずがない。というか一通りの機能検査をした段階で問題にする奴はいなかったのか? 機能検査すらしていないという可能性も拭い去れないが。
 しかし、相手が見ることができない可能性のあるデータをメールで送ってくるというのもすごい話だ。普通、bitmapかPDFで送らないか、こういう場合は。

 どうもプログラマなどという職業を長くやっていると、物事を手続き的に考えるような癖がついてしまったように思える。
 ほとんど全ての事柄について、その振る舞いを還元し、プログラム言語で記述できるレベルに落とし込まないとなんとなく気持ち悪いのである。
 自分で何度か作業をするとそれを手続き型言語(という分類も古いね、どうも)でプログラム化できるようになるかもしれないところが、ありがたいといえばありがたい点だが、逆に自分で実際にやってみないとプログラムを組めないような気もする。これは大変効率が悪いだけでなく、人間が実行できないような規模のデータを処理するプログラムは書けないということになって、大変具合がよろしくない。
 別に必要充分条件であるわけではないので、本当に自分が一度やってみないとプログラミングできないのかどうかはわからないのが本当のところだけれども(証明してしまうと自分の首を絞めることになりかねないので敢えて証明はしない)。


2002/07/17

 なぜか日本には血液型性格分類というオカルトがある。
 非常に単純な法則に支配されている血液型という要素によって、性格が影響を受けるとは考えにくいのだが、性格を形成するのは家庭環境であるという仮定を置いてみると、血液型と性格の関連性があるようにも思える。
 どういうことかといえば、ABO式の血液型というのは両親由来のA,B,Oという遺伝要素によって決定される。
 ここで、Oは劣性遺伝(言葉の意味を知らない小島監督のような人は調べてから読み進めること)であるので、AO, BOという遺伝子を持った人間はそれぞれA型、B型となり、O型が発現するのはOOという因子を持った場合だけである。
 AOとBOという因子を持つ両親からは理論的には全ての血液型を持つ子供が生まれえる(理由がわからない場合にはメンデルの研究を勉強しなおすこと)。
 ここまでは基本として、先に進む。
 3つの因子の順列組み合わせなので、その数は6種類になる。つまり、AA, AO, BB, BO, AB, OOである。順番は結果(=血液型)に影響しない。
 これらの組み合わせを生み出す両親の遺伝子の組み合わせ(ややこしい)は、41通りになる(と思う)。面倒なのでわざわざ表を作って図示したりはしない。
 A型の人間は、A型の両親を持つ確率が2/7, A型とB型の両親を持つ確率が3/14、A型とO型の両親を持つ確率が3/14。A型とAB型の両親を持つ確率が1/7、両親共にAB型である確率が1/14。AB型とO型の両親を持つ確率が1/14。B型も同様である。つまり、A型の人間の人格形成に関わる可能性が一番高いのはA型、AB型とB型とO型は同じだけの可能性で関わるが、A型に比べると非常に少ない。B型もこれまた同様。
 O型の人間は、両親共にO型であるか、片親がO型である確率が3/4、A型とB型の両親を持つ確率が1/4である。AB型の親からはO型の人間は生まれない。
 AB型の人間は、A型とB型、もしくはA型かB型のどちらかとAB型の両親、もしくは共にAB型の両親を持つ。これらの確率はそれぞれ4/9、2/9、2/9、1/9である。O型の親からはAB型の人間は生まれない。
 何が言いたいかといえば、血液型は両親の影響を強く受けるので、両親の性格も血液型と同程度に性格形成に先天、後天の両面で影響するだろうということである(私は脳ネットワークの可塑性を大きく評価しているので、後天面での影響が大きいと考えている)。はっきり言えるのはAB型とO型の血縁上の関連はない、というごく当たり前の結論だけだが。
 さらに言うと、ある血液型を持った人間はそれぞれ上のような両親の影響を受けて人格を形成したわけなので、性格形成と血液型の関連性は時間が経つにつれて強化されていくであろう。
 血液型性格占いのことを不思議だと思っている人がいるかも知れないが、そんなのは不思議でもなんでもないと私は思う。要は子供は親に似ている、というただそれだけのことなのである。


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