「電撃hp」の開田あやのコラムで、プロの作家の条件なるものが挙げられていて、その中に「書きたいものがある人」というものがあった。
ぱっと見にはその通りだと思わせるが、「別に書きたいものはないが、とにかく他人に受けたい」という人間はプロ失格なのだろうか。そういう人間は結構沢山いそうに思うのだが気のせいか。
なんだか知らんが、この週末はゲーム業界に対して逆風になるような事を言っている報道関連番組を2本も見掛けた。
一つは、テレビ朝日の"ザ・スクープ"での中古市場(ゲームに限らない)に関するもので、もう一つはTBSの"CBSドキュメント"での米国の残虐ゲーム訴訟に関するものである。
テレビ朝日の報道は、取材方針からして「中古=善」という態度が見え見えで、勝訴した上昇の偉いさんが涙するシーンを流すなど、あざとい演出にむかつくことしきり。ENIX側の主張には「自分たちのコントロールが入らない中古販売の禁止」はあっても、「中古販売の全面禁止」はないのに、これらを混同して怒っている頭の悪い人々(キャスター含む)の意見ばかり取り上げている。こういう連中を味方につけるためにCESA側ももうちょっとそちらの方面の啓蒙に心を砕くべきではないのか。
映画や本やCDは制度によって保護されていて、ある程度の利益が確保できるから中古にも寛容なのだから、ゲーム業界もそちらの方向を目指すべきではないのか、とかそういう深い論証(あっ、これは単なる私の持論で深い論証でもなんでもないではないか)を日本のマスコミごときに期待するほうが間違っているといわれればそれまでなのだが。
私は、実際にモノを作っている人間が一番偉いと個人的には信じて疑わない(農工商金融役人という身分制を導入すべきだとさえ思う)のだが、どうして資本主義というのは生産に関わっていないほうに金が集まるようにできているのだろうか。
CBSドキュメントの方は、CBS制作の元のフィルムは、訴訟を起こした側とその訴訟自体を無意味だとする側のどちらの言い分も公平に紹介していて大変良くできていると思ったが、日本で勝手に付けているキャスターの外人(名前失念)の非常にいいかげんなコメント(もしかするとTBSの制作側から深い議論をすることを禁じられているのかもしれない。紛糾してしまって時間内に収まらないから)が全てを台無しにしている。これもいつもの事だと言ってしまえばそれまでだが。
ところで、この番組中で取り上げられた「米軍が兵士の訓練にDOOM系の使っている」という話を会社でしたら、そんな馬鹿な話はないだろう、と一笑に付されてしまった。私は米軍ならやりかねん、と思っているのだが、これは巧妙に仕掛けられた冗談だったのだろうか。
6/18分の蓼沼日記の変なところの検証。
ちなみに元文書で言及されているのは、Mori's Floating Factory (Mysteries)の5/5分。
1. 税金を使えるのは税金を払った見返りである。
税金を使えるのは税金を払った見返りではない。
日本国民が日本政府が集めた税金を使えるのは、日本という国家に属しているためである。
日本国民が日本政府に対して税金を払わねばならないのは日本という国家に属しているためである。
これらは"国家に属していること"を介して結ばれてはいるが、直接、必要十分条件の関係にあるわけではない。
以下の事実から最初の前提がおかしいことが導ける。
2. 公務員の行動による結果は日本国民によって共有されているので、日本国民なら等しく行動に注文をつけられる。
株主や納税者(これも、本当は納税者じゃなくても成人の国民であればよいはず)が注文をつけられるのは、経営陣や首長といった一番根元の権限を持った人間に対してだけで、雇用者たる社員や一般公務員に対して直接注文をつける権限(=社員や一般公務員がその意見を容れなければならない)は本来はない。もちろん、経営陣からの指示で、意見にはすぐに従うように、となっているのなら話は別だが、その場合も、その雇用者が意見を容れなかった場合になんらかの罰則を適用できるのは経営陣だけであることを考えれば、株主や納税者が直接的な権限を持っているわけではないことは明白である。
国立大学の教授という職種が果たしてどれだけの権限と責任を持っているのかは知らないが、権限のトップにいないことは明白である。よって、納税者ができることといえば、彼の仕事(=研究)の予算を出す部門に対して、その研究はこれこれこういう理由から予算を出してはいけない、というような意見を言える程度であって、教授本人に直接何かしら文句を言うことはできないのではないか(もちろん、文句を言う分には何の問題もないが、教授側にその文句を受け入れなければならない理由はない)。
「1円を返しますよ」云々というのは、そういう自分が持つ権限の範囲を弁えずに公務員が直接の苦情を容れなければならない、と勘違いしている人間に対して、同じような勘違いで皮肉っている、と取るのは好意的すぎるか。
ところで、国立の施設の場合は誰に文句を言えば良いのかね? この場合は、国政選挙権という形で国会議員に全ての権限が委譲されてしまっているという解釈なのか知らん? だとしたら、自分の住んでいる場所から選出されている国会議員に言わないといけないわけだ。まあ、それなりに数が集まれば、実力行使に出た場合の被害を盾にして役所の責任者に意見を容れさせることができるだろうが。と、これは蛇足。
各界で大絶賛の「エイリアン9」2巻を買う。
半分予想できることとはいえ、怒涛の展開でえらいことになっている。
と、2巻を単体で読んでいると、怒涛の展開に流されてしまって気にならないが、確か1巻は引きで終わっているのだ。あの引きはどうなってしまったのだ? 3巻に続くのか?
アメリカの暴力ゲーム訴訟の話の続き。
折りしも*あの*任天堂がN64用に米国製暴力ゲームであるところの"バイオレンスキラー"(このダサさ大爆発の邦題はなんとかならなかったのか。ちなみに元はTurok2)を発売したばかりだ。日本で同じ論調が台頭してきた場合に、これは年齢制限を付けてるという言い訳で逃れられるのか。巷のゲームショップにおいては年齢制限は有効に働かない、というのをすでにSEGAが証明しているわけだし。誰もそういう点まで突っ込んだりはしないだろうけど。
まー、そういう後ろ向きな対応への興味は実はどうでも良くって、一体本当に悪いものは何か、ということを考えたい。
個人的意見を書かせてもらえれば、この手の問題は総合的な教養の欠如が根本原因だと思うわけだ。つまりは、ゲームと現実の区別をつけることができないこと、もっと言ってしまえば「ゲームだからこそああいう行為が許されるのだ」という根っこの部分のお約束が理解できていないことに問題の本質がある。乱暴な言い方が許されるならば、受け手が*馬鹿*なのがいかんのだ。
そういう馬鹿には見せないようにしましょう、というのが年齢制限などのレーティングということになる。しかし実は年を食っていれば馬鹿でなくなるかといえば、そんな事はない……、こりゃ脱線だ。話を元に戻そう。
えーと、そうそう。「馬鹿には余計な情報を与えなければそれで良い」という解決方法が、暴力ゲーム訴訟を起こした連中の主張の中身である。非常にお手軽な解決方法ではある。でもこれって人間に対する態度かい? 要するに馬鹿には無害でいる程度の情報しか与えず、馬鹿のままでいさせよう、ということだ。当の連中が同じようなことの対象になれば、きっと怒り出すに違いないのだ(もし怒り出さないとしたら、そっちの方がよほど問題だ)。
このような安直な解決方法ではなく「いかにして馬鹿をなくすべきか」という方向からの議論がちっとも出てこないのはどういう訳なのだろうか。確かに大変な道のりであるし、時間もかかるだろう。しかし、相手を人間として扱うからにはこれが本来の解決策であり、また、根本的な解決策でもあるはずだ。当然、その方策が効果を表すようになるまでにはそれなりの時間がかかる。それまでの対症療法としての情報の制限はあっても構わないだろう。しかしそれはあくまで従であり、主たる解決策ではありえない。つまりは本末転倒だと言わざるを得ないものなのである。
PSのコマーシャルのフォロワーとして考えた場合のDreamcastのCMのまずい点についての一考察。
PS本体のCMで使われた「1,2,3」は、無意味でなおかつ非常に単純である。これが耳に入った視聴者は、無意味であるが故に注目してそれがいったい何を意味するのかを確認したくなる。なおかつ、「1,2,3」だけではすぐに無意味なことが分かるので、「Sonyの」とか「Playstationの」などの付帯情報も記憶に残しやすい(というか、絡めて覚えておかないと覚えられない)。ついでに言うと、単純であるが故に繰り返しを多数行うことができる。
転じてDreamcastの「後藤善男」は、無意味である点では「1,2,3」と同様であるが、その一連のフレーズが無意味かどうかは、一度意識に上らせて検証しないと分からない程度に複雑である。よって、これを聞いた視聴者は、ある程度時間を掛けて意味を吟味する(その間にCMは終わるだろう)か、それとも複雑であることを認識した時点で吟味することを放棄して意識の外側に流してしまうだろう。吟味した視聴者は、どこかの会社がやっている「後藤善男」キャンペーンであることは理解するかもしれないが、それだけで十分情報を含んでいるために、「SEGAの」とか「Dreamcastの」とか、流す側が本当に意識に残したい情報は抜け落ちてしまうのではないか。
つまり「後藤善男」キャンペーンは成功したとしても「湯川専務」と同じ効果(湯川専務だけ有名になってDreamcastは印象に残らない)しか起こせない。どうせフォロワーをするのなら、変なプライドなぞ捨ててしまって「1,9,9」くらいのことはやって欲しいものだ。
もう一つ。
DreamcastもPlaystation同様に、自プラットホーム対応のソフトのCM用に共通のジングルを作っているが、Playstationは2種類用意しているのに対して、Dreamcastでは1種類しか用意していない。
どこがまずいのかといえば、視聴者に対して、注目を促すポイントをきちんと提示できない点だ。
Playstationに興味のある人は、たとえそれまではTVに注目していなかったとしても、黒地にフェードインするPSのロゴと特徴的なジングルによって、即座にCMに注目することができる。そして、最後に金属音と共にくみ上げられるPSロゴによって、CMが終了して注目を解いて良いことも即座に判る。また、途中からCMを見始めた視聴者にも、何のCMであったのかが即座に判る。
対してDreamcastはどうか。ジングルが1種類しかない上に、いつジングルを流すのか、も統一されておらず、あるCMでは最初に、違うCMでは最後に流されていたりした(たぶんCAPCOMのCMでは最初に、それ以外では最後に、だったと思う)。
これでは、最初から最後までCMに注目していた視聴者にしか、効果を発揮しない。はっきり言って、そんなにまじめにTVを見ている人間など皆無といっても良いほど少ないのではないか。
任天堂はその辺もちゃんとしていて、最初にさまざまなフォーマットながら「ろくよん」、最後にマリオの金貨を取った効果音を入れている(こちらは最近は入れてないかも)。
こんないいかげんな仕事をしているコブヘーはいったい幾らSEGAからふんだくっているのだろうか。少なくとも高額納税者番付に載る一助になるくらいは取っているのは間違いない。
んで、ちゃんと朝食を摂って歯も磨いて、さあ出かけようかね、という時点でいきなり眠くなるってのはいったいどういう訳なのか。
労働するのがそんなに嫌なのか。>俺
それほどの自覚はないぞ。最近は作業も楽しいし。
単純に朝食を摂ったおかげで胃に血液が集まって、脳に回る分が減った、というのが無難な解釈かな。
週末が雨だったせいでシャツが臭い。よって本日はあまり機嫌がよろしくない。こういうどーでもいーよーな事がやけに気になる時は、自分が神経質であることを再確認できることであるなあ。
ところで、私は普段は綿シャツしか着ないのだが(主に他のを試してみるのが面倒くさい、という理由から)、白のシャツより何かしら色の付いたシャツ(これも青しかない。理由は前と同じ)の方が、洗濯した後に臭くなる確率が高いように思えるのだけど、これって単なる思い込みだろうか。
社長が外出すると、必然的に下っ端の私が電話番になる。
で、なんか知らんが今日はやたらと電話がかかってくる。いつもの倍くらいは掛かってきていたのではないか。
当然、作業を途中で中断して電話の対応をしなければならないわけで、作業効率が落ちること夥しい...と言い訳なんかしてみたりして。
不確実情報なれど、衝撃的なので書く。信用するかは読者次第。SONYのAIBOは、実は犬ではなくて猿だったそうな。情報源はここの6/14分。
公取委が、独禁法の監視対象範囲に家庭用ゲーム機を含めたらしいけど、SCEIはPSが市場を独占する前からずっと同じポリシーで商売をし続けている筈で、今になってとやかく言いだすのはSCEIの業界に対する影響がでかくなったからなのだろうか。消費者の立場からするとPSがシェアを握る前とそんな変わらんと思うのだけど(地方に住んでるとまた感じ方も違うかもしれない)。
つーか、さっさとゲームソフトも期限付き(商品ごとの自由価格設定の解禁期限ね)の再版制を適用しなさい。ついでに疑似レンタルとして機能しうる中古販売も業として行うのは一定期間禁止な。これでだいたい音楽と同じだ。
それはそれとして、結局、ソフトウェアを何かのメディアに固定して売る、っていう形態に無理があるんだろう。全てのゲームソフトがNintendo Powerのような形式(メディアはフラッシュメモリじゃいかんが)で流通するようになれば、コピーとかまた違う問題も出てくるんだろうけど、流通面での問題はかなり改善されるはずだ。沢山作りすぎてだぶつくことはありえないし、思ったより売れなかった場合にメーカの責任で価格を下げることも簡単だし。その代わり既存小売業者は下手をすると一掃されてしまうけど。
電脳学園でPTAに訴えられたりしていたTAKERUってなんで定着しなかったんだろう。私はMacを使いだす前のマシンは初代PC-8801だったから縁がなかったんだけど。元々の市場が小さすぎて成立する余地がなかったのか。
そーいやDigicubeって、コンビニ専用を謳った商品では似たようなこと(返品在庫の定価を切り下げての販売)ができるはずなのになんでやらんのだろう? 既存流通との要らぬ軋轢を招かないためか知らん。
なんで中古ソフト問題がユーザからの風当たりが妙に強いのか唐突に気づく。そーか、CESAは最初に「中古ソフト撲滅キャンペーン」などという頭の悪いキャンペーンをやってたんだっけ。
なんでそういうユーザをむざむざ敵に回すようなことをするかなぁ。すでに新作ソフトで商売をしていないMDやPCEの中古も当然潰すべきなのだ、なんて阿呆なことを考えてるんじゃあるまいな。そりゃ、ゲームソフト全てに消尽しない頒布権があるなら潰せるだろうさ。で、潰して何の得がある? リメイクを作れば買ってくれる? そんな端金のためにもっと大きな権利まで認められないかもしれない主張をするのか。それとも、最初に主張する権利の範囲は大きければ大きいほど良いなんて、アメリカで賠償訴訟を起こす訳の分からん連中と同じ思想なんじゃあるまいな。
ちなみに家で使っているB/W G3 Macも調子が悪い。
使っている分には何の問題も起きないのだが、起動途中でフリーズしたり、終了途中でフリーズしたりする。
内蔵HDDは買ってきたまま使っているので、パーティションを切っていない。起動可能な外付けデバイスも今のところない。
現状で4Gほどのデータ(システム、アプリケーション込み)があるので、バックアップを取ってのクリーンインストールはしたくない。
しょーがないから、しばらく騙し騙し使って、IDEのHDDでも買ってきて増設してからクリーンインストールするしかないのか。
人間は記憶である。詩的な言い方をすれば思い出。
つまりは、生まれてからこれまでの入力の積み重ねが人間を形作っている、ということ。
ある人物と全く同じ入力を得て作られる人間は絶対に他には存在しないわけで、その記憶が形作っている人格の唯一性が人間存在の価値なんだと思う。こんな事はわざわざ書くまでもない当たり前のことだけど。
現在の科学技術では、肉体の唯一性は揺らぎ始めているけれども、精神、知性、霊魂、まあ何と呼んでも構わないけど、人間を構成している目に見えない部分の唯一性はまだ保たれている。
やはり、技術が進んで人間の精神が目に見える形で取り扱えるようになると、その唯一性もまた崩れていくのだろうか。
だとしたら、その時はいったい何に人間の価値の拠り所を求めれば良いのだろうか。
自然界に起きることの全てには意味などなく、意味を与えるのは人間である。
つまり、自然界に起きる現象であるところの人生には意味などない。少なくとも自分で意味を与えるか、誰かに意味を与えられるまでは。
よって、人生の意味について思い悩むのは愚の骨頂といえる。そんな事で悩むくらいなら、さっさと自分に都合の良い意味を自分で与えるか、与えてくれる人を探すほうが良い。
人間というのは楽天的にできているらしく、判っていないことについては人間の都合の良いような解釈を与えるようだ。
そういう都合の良い解釈のことを、ロマンと呼ぶ人もいる。曰く「科学の進歩によってこの世からロマンがだんだん減っていく」
ところで、科学というものは、実はそれだけではあまり役には立たないものだ。役に立っているように見えるのは「科学の応用」であり、科学それ自体は役に立っていない(あくまで、科学的思考の中には実用的応用は含まれない、という立場で物を言っている)。
つまり、人類はそれ自体では余り役に立たないものの発展のために、実際の役には立たなそうだけど心の平安をもたらしそうなロマンを削っていることになるわけだ。
どうしてそんなことをするのかといえば、科学がロマンと同じかもしくはそれ以上の価値を持つだけの魅力を備えているということになるだろう。もしかすると、科学の方にロマンより魅力を感じる一部の人々によってのみ科学が発展させられているのかもしれないが。
要するに何が言いたいのかといえば、人間というのはとても"知りたがり"なのだということだ。
それは、実は不安からきているのかもしれない。知識というものは、その断片が与えられた瞬間、全てを知ってしまわない限り、とてつもない不安に駆られる麻薬のようなものかもしれない。知らない、と言う事実さえも知らなければ、ずっと平穏に暮らしていけるのかもしれない。
しかし、それでもなお、一度知識の味を知ってしまった人間は新たなそれを味わわずにはいられない。そういう意味でも知識は麻薬に似ている。
しかし、こんだけ長いこと生きてきて、本物のプラネタリウムというものを初めて見たのだが、現実にはありえない速度で動く星空というのは、眩暈を起こさせるような不思議な体験ではあった。
今度は普通の時に行ってみるとしよう。
明けて翌日。
アルコールの抜けたすっきりとした頭で、定番ゲーム「スコットランドヤード」に挑む。
名古屋に行った際に現地の知人にもらってきた、という大宮在住の友人が"怪盗X"、残りのメンバーが刑事という割り振りである。
途中、何度か包囲網を突破され危うい場面もあったが、結果からいえば、怪盗Xは無事に逮捕された。いやあ、こういう頭を使うゲームというのは本当に良いものだ。
そのバイクを駆ってさくらやに行ったら、「くるみミラクル」が980円だったので思わず買ってしまう。7/22発売の「どこでもいっしょ」を睨んでポケットステーションも買う。
……なんで1万円出して釣りが500円少々しかないのだろう? はっ、この「俺の屍を越えてゆけ」はなんですか。こんなのをやってる暇なんかあるんですか。
小説は、導入スレショルドの高い娯楽ジャンルである。
要するに、将来得られるであろう楽しみのためには多少の努力は惜しまない、という人間にはアピールするが、そうではない、娯楽に対しても怠惰な人々(世の中の大半を占める筈)にはアピールしない、ということだ。
小説に限らず、多少なりとも知的作業を伴う娯楽というものはそういう側面を持っているものだ。例えば、パーティーゲーム(人生ゲームなどの、覚えなければならないルールが殆どないゲーム)ではないボードゲームとか。
そこで、業として小説を扱う人々(通りの良い表現をすれば、小説家および編集者)は、小説の導入スレショルドを低くする、もしくは、得られる楽しみが大きいだろうと予測できるようにして相対的にスレショルドを低く見せる、というような手法を駆使することになる。例えば、1頁中の文字の量を減らして活字を大きくする、というのが前者の例、人気イラストレータの挿絵をふんだんに入れる、などが後者の例だ。前者は後者に比較すると、引き算の要素が強い手法なので、一般的に安易で楽だと思われる。
先ほど触れたように、ゲームにおいても同じ事が言える。家庭用ビデオゲーム(以降、これを単にゲームと表記する)は、コンピュータがルール運用の代行を行うという関係から、一般的なボードゲームよりは、知的作業を行う、という意味でのスレショルドは低いが、最近ではエンディングを迎えるために大量の時間が必要なものが多くなり、ある程度の時間的拘束を受けることになるというスレショルドは逆に高くなっている。
とはいえ、プレイ時間の長期化傾向は市場の要求から発したものであり、プレイ時間が短いことが売りになることはあまりない。つまり、知的作業を減らすことでスレショルドを下げるか、ゲーム進行に何らかの付加価値(最近の流行は派手なイベントなのだろうか)を与えて相対的にスレショルドを下げるという作業のどちらか、もしくは両方が導入スレショルドの低減のためにもっぱら行われていることになる。
んで、前者の作業を経て世の中に送り出されたものは、たいていの場合内容が薄くなる。なるべく頭を使わなくて良いように、要素を削っているのだから当たり前である。
つまり「口当たりは良くてサービスも満点だが薄くてすぐに飽きてしまうゲーム」が巷に氾濫することになる。さらに悪いことに、人間というのはなんにでも慣れてしまうので、以前は「サービス満点」だと思われていたものが、今では「当たり前」になり、遠くない将来には「足りない」になってしまう。つまり、サービスによってスレショルドを相対的に低くするという方法論は「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」になりかねないのだ。
しかし、ゲームは小説に比べると制作側の自由度が高いために、それ以外の工夫も凝らすことができる。例えば、最終的なスレショルドは高いが、段階的に高くなっていくためにスレショルドが高いことに気づき難い、などの工夫である。
これらの工夫を施した上で、ユーザ全体に対して「遊ぶ時にも怠惰なのは損だ」という教育を施していくべきなのではないだろうか。それとも、頭を多少なりとも使う歯ごたえのあるゲームは現在のボードゲームのように、高い値段で細々と扱われるべき商品なのか。
この項未完。もうちょっと考えてみよう。
が、今日中に家賃を振り込まねばならないので、銀行に行かねばならぬ。
午前中は雨も降っていたし、体調も最悪だったので、早々に諦めて眠ることにする。
午後になり、雨も止んだのでバイクで町中へ。銀行に行くと同時にいろいろ買い込んでしまう。