GUIN SAGA 66巻「黒太子の秘密」読了。
文章はそれなりに安定している(ひどくないレベルで)が、話が動かないのでなんとも。
小林めぐみ「特種駆逐業者出勤ファイルその2 続きはどうにも理不尽」読了。
そんなに理不尽ではないような。このペースで行くと、3巻か4巻でまとめなのだろうか。
北村薫「六の宮の姫君」読了。
芥川竜之介の同名作品にまつわる、芥川自身の発言「あれは玉突きだね。……いや、というよりはキャッチボールだ」に関して、その発言の意図を推理する話。
私は、古典と呼ばれる小説のほとんどを読まずに過ごして来たので、なんだかあまりに未知の世界過ぎてどうにも入り込めなかった。
体調が悪いのに眠れない状態で読んだので、いつもより内容が上滑りしていってしまっているような気がする。
え? いつもの感想と大して変わらん?
フィリップ・K・ディック「マイノリティー・リポート」読了。
以前新潮から出ていた短編集からの再録や、SFマガジンに掲載されただけだった作品を集めた作品集。ディックは長編より短編の方が良い、と思うのは私だけだろうか。
読んだことのあるはずの表題作や、映画「トータルリコール」の原作となった「追憶売ります」は全然覚えていないのに、どういうわけだかSFマガジンに掲載されただけの作品を覚えていたりする。
多分、新潮版を読んだ時にも同じ感想を抱いたのだろうけど、まあよくも、「追憶売ります」をあんな映画に仕立て上げたもんだ。原形をとどめているのは導入部しかないではないか(どちらも馬鹿話である、という点では同じだが)。
帯に「マイノリティー・リポート」も映画化される旨が書かれているが、この調子ではどうなることか。
いくら映画化されるからといっても、表題作は「少数報告」の方が良い邦題だと思うのだがどうか。書名だけ「マイノリティー…」にすれば良いではないか。
身体は確実に風邪の症状を示しているというのに、あまり眠くならないというのはどういうわけなのだろうか。以前は風邪を引いたら、1日眠っていても足りないくらい眠くなったものなのだが。
はっ、実は身体の回復モードのスイッチが切り替わらなくなっているのか。死期は近いということか(違うって)。
単に今回の風邪が喉風邪で、呼吸は苦しいが他の部分はそれほど消耗していないということだろう。たぶん。
ところで、軽い呼吸器障害というのは、その他の軽い症状に比べて、そりゃ確かに苦しいのだけど、他人から見るとそれ以上に苦しそうに見えるらしい。
頭痛とか倦怠感の方がよほど苦しいことが多い(軽目の呼吸器障害と違って、苦しい状態が継続するから)のだが、他人から心配されるのは、呼吸器障害を起こしている時が圧倒的に多いのだ。ぐったりしてるより、動いて音を出して苦しむから見てて判りやすいからだろうか。
確かに、重い呼吸器障害を起こした時などは、はっきりいって死を身近に感じることもあるのだけれど(最近はそこまで酷いのはないけど)。
すごく面白いものに出会った時、それにインスパイアされて何かを作り出したくなる、という衝動は私には起きたためしがない。
どういう訳だか、あんまり面白くないものに出会った時のほうが「こうすればもっと面白くなるのに!」というようなアイデアが湧いてくることが多い。
熱中して取り組むくらい面白いものに出会った時は、心の中から何かが沸いてくることなど一切なく、本当にそれだけに熱中して、「あー、面白かった」という感想以外、後には何も残らない。
つまりは、私はあまりパロディ系の作品を作り出すのには向いていない、ということなのだと思う。いや、決して言い訳なんかじゃなくて。
何の話かといえば、「俺の屍を越えてゆけ」である。
このゲーム、特にここが面白い、ということは簡単には書けない(ぱっと見でアピールするような要素があまりないのだ。やり込んでいくとじわじわと判ってくる要素はてんこ盛りなんだけど)し、ユーザインタフェース周りではむしろ悪い点(主に見栄えの問題で本質的な問題ではない)の方が目に付くのだが、なぜか延々と熱中してやってしまうのである。そういう意味では、良く雑誌でのレビューの時に引き合いに出されるWizardryに確かに良く似ている。やっていると、時間をそれにばかり費やしてしまって他の活動に重大な支障をきたしそうになる点でも似ている。
宝物と経験値を求めて、さくさく終わる戦闘をひたすら繰り返す、という構造も、Wizに共通するものがある。空しい作業と判っていても、結局、我々は宝物あさりと経験値稼ぎが好きなんじゃなかろうか。
咳をし続けたせいか、腹筋が筋肉痛になった。
通常、腹筋運動の後の筋肉痛では、胃袋のあたりが広範囲に痛むのだが、今回は腰骨のあたりが局地的に痛む。
同じ腹筋を酷使したのに痛む個所が異なるというのはどうしてだと思ったのだが、調べてみると腹筋というのは、腹腔を覆っている複数の筋肉の総称らしい。そういうことか。
ある入力に対して人間がどのように感じるのか、という命題は、その入力がある程度以上複雑になると、個人差が大きくなりすぎて、一般的に論じるのは無意味になりはしないだろうか。
無意味とまではいわなくても、単なる仮説の域を脱することはできず、その論者と同じ傾向の感性を持つ人間は納得できるが、そうでない人間には今一つ実感できない、そんなものになってしまうと思う。
たとえば、あるジャンルのゲームをプレイした時に、プレイヤーがどう感じるか、などという問題には、プレイヤーのレベルとゲームの難易度のバランス、ユーザインタフェースの善し悪し、そのプレイヤーの趣味嗜好など、ざっと考えただけでもこれだけの一般化など到底できそうにもない要素を挙げることができてしまう。
また、アクションゲームなどの方法論をアドベンチャーゲームに持ち込んでも、本当に細かいユーザインタフェース部分以外では、意味を成さないと思われる。
RPGの本質はなんであるか。
最初の発生過程(すなわち、1unitが1キャラクターである中世を舞台にした戦闘級シミュレーションゲームのキャンペーンからDnDが生まれた過程)から考えると、結局RPGというのは「自分の操るキャラクターへの感情移入」だと思う。
戦闘、シナリオ、イベント、etc.の他の要素は、キャラクターへの感情移入を助けるためのツールでしかない。
つまり、良いRPGとは、如何にキャラクターに感情移入できるか、で決まると思う。これは、TRPGだろうがCRPGだろうが同様だ。
シナリオやイベントなど殆どなくとも、戦闘システムを通じてキャラクターに感情移入できるなら、それは良いRPGだ。
逆に、入念なシナリオと豪華なイベントが用意されていても、キャラクターに感情移入できないなら、それは駄作RPGだ(あくまでRPGとしてみた場合は、だが)。
森雅裕「いつまでも折にふれて/さらば6弦の天使」読了。
いつもの作品とは違って、能天気な登場人物が主人公の周囲を固めているおかげか、殺伐とした内容の割には読んでいて落ち込まない話になっていた。
作中に登場するバンドは、作者が所属しているバンドと同名であるから、それは現実世界にモデルがいるから、なのだろうか。