クレマン・ジャヌカン・アンサンブル
「ラブレーの楽しい集い」

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ドミニク・ヴィス(CT、音楽監督)
ブルーノ・ボテルフ(T)
ヴァンサン・ブショ(Br)
フランソワ・フォーシェ(Br)
アントワーヌ・シコ(Bs)
エリック・ベロック(lu/g)

1996年7月6日(土) 6:30pm
水戸芸術館コンサートホールATM(茨城県・水戸市)

★昨年のカストラート・カウンターテナーブームもあって日本でもすっかり 有名になったドミニク・ヴィス。2度目の来日となった昨年の「マドリガル・ コメディ」での名演も記憶に新しい。彼の率いるクレマン・ジャヌカン・アンサンブル (以下ECJ)の公演を水戸で聴いた。「ラブレーの楽しい集い」と題された公演は この日以外にも各地で行われており、いずれも同一のプログラムが組まれたようだ。 16世紀フランスの作家、フランソワ・ラブレーの著作「ガルガンチュアと パンタグリュエル物語」(その昔、世界史の教科書で見かけたような。。。^^;) に記されている作曲家の中から11名を取り上げ、34曲に及ぶシャンソンを 一気に演奏・紹介するもので、すでに彼らによって同名のタイトルでCD化も されている。この公演によってルネッサンス期の世俗曲が概観できよう。

★会場となったコンサートホールATMはあの吉田秀和氏が館長を務める 水戸芸術館内にあり、 水戸室内管弦楽団(顧問:小澤征爾)を擁するなど開館以来意欲的な音楽活動の 展開を見せている。今回もECJのような海外アーティストの公演を東京での それに比べ格安で実現したことは評価されてよいだろう。(もっとも毎年市予算の 1%を投じているのだから優良コンサートを低料金で提供することは義務とも いえるが。)六角形アリーナ型の中規模ホール(620-680座席)でステージを 客席が取り囲むような造りとなっており、どの席からもステージからの距離感を それほど感じさせない。また残響は適度に抑えられ、ルネッサンス・シャンソンの ような言葉の明瞭さとリズム感が命となる曲を楽しむにはうってつけの空間と いえる。この日は90%程度の席が埋まった。

★演奏会に先立ち仏文学者・細川哲士氏によるプレトークが行われ、演目に ついての解説やプログラム・ノート作成に当たっての裏話などを披露したのだが、 これは演奏をより楽しむのに大変効果的だった。というのも、この時代の シャンソンは歌詞の意味を知っているかいないかで演奏の楽しみ方がまるで 変わってきてしまうからだ。このページをご覧になっている方々には周知の 事実かもしれないが、"世俗"曲の名の通り卑隈な表現が直接・間接問わず随所に 顔を出す。プログラム・ノートに細川氏による歌詞の全訳が載っているのだが、 見事な対訳に感心させられる。感性豊かな人ならば、これを読むだけでも十分「感じ」 ることができるだろう。(^^;)

★最初はジョスカン・デ・プレの作品から有名な「千の後悔(Mille regretz)」 を含む3曲。一曲目からいきなり鳥肌が立つほどの和音を聴かせてくれた。 ステージ上にテーブルを用意しそれを囲むように5人のソリストが着席し、 曲によってはヴィスがペンを指揮棒代わりに振るというなんともアットホームな 感覚の演奏形態が取られた。哀しみを歌う曲と生(性?)を謳歌する曲が交互に 演奏され、間にリュート/ギターのソロを入れて飽きさせない構成を組んでいる。 ジャヌカンの「卵より白いむちむちおっぱい」ではタイトルからして そそられるものがあるが、彼らの本領発揮とばかりに熱演されその表情に 思わず吹き出してしまいそうになった。クレメンス・ノン・パパの「みにくい おっぱい」などは日本語で演奏したらセクハラで告訴されても文句の言えない 内容なのだが、これがあの崇高な宗教曲を書いた人と同一人物によるものである とは全く信じがたい。クローダン・ド・セルミジの「決して豚は食わないぞ」 にいたっては「あいつはうんと糞を食った」というフレーズまで飛び出し、 なんでもござれ状態に陥っている。言い替えれば、この時代になってやっと音楽が 庶民レベルまで降りてきて自由な表現が可能となったということか。 究めつけはアドリアン・ウィラールトの 「アラスの市場で」で、日本で放禁となっている四文字言葉を連呼する という過激な歌詞に加え、その節を反復させることでピストン運動を想起させる (しかもその周期が絶妙)曲造りはもう究極のエロティシズムといえる。これを テノールのボテルフがニタつきながら歌うものだからいやらしさに拍車がかかって しまった。プレトークの学習効果が的面に表れた場面だ。現代においてこういった 作品が生まれ得るだろうか?まさに「ルネッサンス」である。

★このアンサンブルで特徴的なのはまずなんといってもヴィスの声だろう。 最近はカウンター・テノールもすっかり市民権を得、多くの歌い手が登場してきて いるが彼ほど腰の強い声を出せる人は他にいないだろう。地声は全く普通の男性の ものだがあの妖艶な頭声は独特のものだ。それでいてアンサンブルの中にあっては 出過ぎることなく見事に融け込んでいる。次に上げられるのは音程の確かさだ。 演出のために多少ハメをはずしたような歌い方になっても音程は正確に保たれている。 そして音楽の表現能力。曲中に描写された人間の喜怒哀楽はもちろんのこと、 擬声語・擬態語の表現もリアリティに富んでいる。ジャン・ド・ラフォンの 「その朝」の中に「あなたのバグパイプにあわせて二人で踊らない?」と いうフレーズがあるのだが、まるで本物のバグパイプが鳴っているかのようだった。

★この日の演奏は非常に完成度の高いものだった。彼らの調子も良かったのでは ないか。収録してライブ盤として出しても悪くないほどの出来だったように思う。 観客の反応もすこぶる良く、演奏終了後何度もステージに出てきた。アンコール にはジャヌカンの「狩り」とデ・プレの「オケゲムの死を悼む挽歌」 が演奏されたがこれがまた良かった。前者は「鳥の歌」と並んで彼らが最も 得意とするスタイルで聴衆の笑いを誘った。後者はこの公演を締めくくるに ふさわしい名曲だが、完璧なハーモニーに目頭が熱くなるのを感じた。

★私は今まで宗教曲を中心に聴いていて世俗曲をぞんざいに扱っていたような 気がする。それは食わず嫌いというか、世俗曲の魅力を感じさせてくれる演奏に 出会ったことがなかったことに起因しているように思う。今回ECJの演奏を聴いて ルネッサンス・シャンソンの醍醐味を味わった気分だ。特に世俗曲は宗教曲に 比べて生で聴いた場合CDとは比較にならないほど刺激的だと思った。この分野の 曲、とくにフランス・フランドルものを歌わせたら彼らの右に出るものは いないだろう。まして日本人によるこの手のアンサンブルの出現には、少なくとも あと20年は待たなくてはならないだろう、とさえ思ってしまう。

★終演後、あちこちから「よかったねー、今日のコンサート」という声が 聞かれたが、私も大変満足できた。料金対満足度では今年最高だろう。 三大テノール東京公演の影に隠れてしまった今回のECJジャパンツアーだったが、 着実にファンを獲得したことと思う。98年3月の4度目の来日が今から楽しみである。

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Last Modified: 2008/Jun/10 00:11:05 JST
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