この作品は、97年度の光文社「本格推理」に応募してボツになったものを、加筆訂正したものです。5年以上前に考えたネタのため、今ではちょっと古くなってしまった「最先端」のテーマも扱っておりますが、その辺はご容赦を……。 なお、この作品は《読者への挑戦》付きでフーダニットの形式を取っております。多くの手がかりを散りばめておりますので、犯人像を予想しながら読んで頂ければ幸いです。 |
「し……、死んだ?」 自分の犯してしまった行為に戸惑いながら、その人物は足元を見下ろした。男の呻き声は、もはや聞こえてはこなかった。 「石田さん、一体どこへ行ったんだろう」 電車に揺られながら、太西はひとりつぶやいた。 月曜のJR山手線はいつもより混んでいるように感じる。それは、休み明けに仕事に向かうのが億劫だからだけではない。石田の行方が心配で、幾分気が滅入っているのだ。太西は、直接自分に関係のない些細なことでも気に病んでしまう性質だった。それをクリアしない限り、次の仕事が手に付かないのだ。 石田祐治が行方不明になったのは、先週の半ばのことだ。石田は、太西と同じ大手電機メーカーに勤める三十三歳の技術屋である。本社は都心にあるのだが、石田の職場であり行方不明の舞台でもある商品開発部は、東京でも下町の方に位置している。太西の勤める情報システム部も含め、技術系の部署はすべて、この下町に集まっている。 太西にとって石田は同じ大学の三年先輩に当たり、朝の通勤電車でもよく顔を合わせた。しかし先週の木曜日である五月二十一日、午後になっても石田が出社しないため総務担当が奥さんに確認の電話を入れたところ、昨日から帰っておらず連絡もないという。心当たりに連絡を取っても見付からないため、夕方には警察に捜索願を出したそうだ。 電車を乗り継ぎ駅から徒歩で社に向かった太西は、情報システム部ではなく、まず道を一本隔てた隣の敷地にある商品開発部へ足を運んだ。高い塀で囲われており、赤外線警備システムが設置されているのが見える。道路に面した通用門から敷地内に入ると、すぐ左手に守衛室がある。窓口に座っている角刈りの男に太西は声を掛けた。 「おはようございます。あの、守屋さんは今日は何時に……」 「ああ、モリさんならここしばらく遅番だからね、夕方の五時過ぎには来ると思うよ」 親切に答えてくれた藤井という守衛に守屋への伝言を頼んでから、太西は情報システム部へ向かった。今日も一日、仕事が始まる。 その日の夕方、太西は残業せず五時半きっかりに職場を離れ、商品開発部の守衛室へ向かった。そして、窓口に座っている初老の男に声を掛けた。 「モリさん、どうもご苦労様です。どうです、警察からは何か連絡ありました?」 「はいはい、お疲れさんです。まだ見付かってないのか連絡は一向にありませんな。どうも警察はまじめに捜索しておるんだかどうだか……わしの話も真剣に聞いてくれんしな」 守衛の守屋は、いつもの愛想の良い笑みに不満の意をにじませて答えた。守屋は、石田が失踪したと思われる五月二十日水曜日の夜に、守衛室で警備・監視を担当していた。彼の主張では、残業で居残っていたはずの石田は通用門を通っていない、敷地外へは出ていないと言うのだ。彼の言い分を信じれば、石田はこの敷地内で蒸発したことになる。 先週の金曜にその旨を警察に申し入れたが、警察は自ら動かず敷地内を見回って石田が隠れるような所はないかチェックするよう会社に伝えただけだった。社員がざっと一通り探したが、石田は見付からなかった。 「警察は、モリさんが目を離した隙に通用門を通って外に出たんだろう、って思っているんでしょうね。何でも失踪の原因の大半は色恋沙汰だとか。何か女性関係について情報があれば教えるよう、言っていたそうです」 石田は敷地外に出たのだろうと警察が考える根拠として、石田のロッカーが空っぽだったという事実がある。仕事中は作業着姿のため、通勤用のスーツが無いということは、着替えて外へ出て行ったということらしい。 しかし、いくら警察がそう言おうと、太西は納得できなかった。きっと守屋も同じ思いに違いない。守屋は自分の目を信じて、太西は自分が設計に携わった自社のセキュリティ・システムを信じて。 当初警察は、石田は残業せずにセキュリティ・システムが稼動する時刻よりも前に正門から出て行ったのではないか、とも言っていた。しかし、水曜の晩のセキュリティ・システムに残された記録を太西が調べたところ、石田のID情報が残っていたし、その晩残業をしていた者の中に石田を見かけたという者もいたので、その線はないと太西は考えていた。 「モリさん、あの日の残業者の出入り、プリント・アウトして頂けました?」 「はいはい、藤井さんから聞いていますよ。ここにあります。セキュリティ・システムの記録の余白に、この通用門を通って出て行った退社時刻も書き込んでおきましたから。でも太西さん、その記録持って行って、まだ何か調べるんかね」 「ええ、ちょっとこの件について相談に乗ってくれそうな人が居るんですよ。今からそこに行きます。なにしろ『密室』ですからね」 「はあ? みっしつ──」 守屋には密室の意味が分からなかったようだ。特にこの場合は、監視状態の敷地内からいかに脱出したかという『広義の密室』であるため、分からなかったとしても無理はない。 「居るんですよ、頼りになる人が」 太西が納得できないこの謎を解いてくれそうなのは、あの人しかいなかった。 JRを西荻窪で降り、太西は多くの自転車が溢れる商店街をしばらく歩いた。パチンコ店の向かいの路地に古びた雑居ビルがある。立ち止まって見上げると、薄汚れた看板が目に付く。繊維会社の事務所や学習塾、そば屋などの名前が連なる中、五階に相当する看板には小さな文字で控えめに『ヒロ・前田 探偵事務所(完全予約制)』と書かれている。 暗い入り口の奥、何とか動いているエレベーターに乗り五階で降りると、すぐ右手にスチール製のドアが見える。ここが彼の事務所だ。どこから持ってきたのか知らないが、ライオンの顔をかたどったノッカーが付いている。まるっきり不釣合だ。取り敢えずそいつでノックしてからドアを開けた。 「ごめんください、ヒロさん。太西です」 ヒロはデスクに向かって右手でワープロを打ち、左手はトランプを弄んでいた。時折右手にペンを持ち、紙に自分の左手のイラストを描いている。彼は探偵の他に副業、というか趣味でマジック作品を専門誌に発表しており、どうやらその原稿を執筆中のようだ。 「ヒロさん、今、お時間よろしいですか?」 いいに決まっている。本業である探偵の方は、ずっと開店休業の状態が続いていると聞く。その原因は、彼が依頼を選り好みするところにあるようだ。彼は家出人探しや浮気調査なんかは絶対にしない。自分にとって興味深い謎がないと、食指を動かそうとはしないのだ。看板に書かれている『完全予約制』は、つまらぬ依頼を断る口実に使っているらしい。そうやって客を追い返しているうちに、一般客からの依頼はパッタリと途絶えた。今では相談しに来るのは、警察関係者や同業者の探偵、推理作家など、事件と謎を扱うその筋の人たちばかりだそうだ。でも、そんな機会はめったにあるまい。きっと今日も暇に違いない。 ヒロはワープロの蓋を閉じて、端正な顔をこちらに向けた。太西より二つ年上だが、肩まである長髪のせいか若々しく見える。 「やあ、これはこれは太西君、また来たのかい? よく来るねえ。半年ぶりぐらいじゃないかな。久しぶりだね」 大きな声でちぐはぐなことを平気で言う。きっと、どうでもいいようなことは深く考えずに口に出しているのであろう。 「今日もまた、おもしろいネタを持ってきてくれたんだろうね。そうじゃないんなら、僕は忙しいんだ。お引き取り願うよ」 笑いながら言う。きっと冗談半分だろう。 彼と太西は大学時代、同じサークル『推理小説研究会』に在籍していた。彼はその他に奇術研究会や合気道部に所属していたが、太西はクイズ研究会と掛け持ちをしていた。太西が創作したパズルやクイズを彼はいとも簡単に解いてしまい、太西は負けじと更に難しい問題を考案してくるのだった。この関係は、社会人になった今も続いている。 「ヒロさん、今回はクイズやパズルじゃないんです。実際に起こった事件なんですよ」 「ほう、難事件なら警察から僕の所に連絡が入ってきてもおかしくはないんだがな……。警察は何と言っているんだい?」 「いや、あの、捜索願は出したものの、警察はあまり動いていないみたいで……」 「は? 捜索願って、家出か何かかい? はん! そんな事件、犬も喰わないね」 わけの分からない喩えだが、ヒロが興味をなくしそうだというのは分かった。ぷいとそっぽを向いてしまったので、太西は切り札を出すことにした。 「いや、でも密室みたいなんですよ……」 太西の一言に、ヒロは振り返った。そして、その瞳は輝いていた。 「ほう、密室! とうとう現実に起こったか……うん。いや、いいよ、うん。実にいい」 やっと話を聞く気になってくれたヒロに、太西はこれまでの概要を語り出した。 「なるほどね……」 話を聞き終え、ヒロは少し思案顔である。 「太西君、セキュリティ・システムの記録を調べたって話だけど、ビデオカメラで監視でもしているのかい?」 「いえ、違います。IDカードの記録なんです」 太西の会社の商品開発部は最先端の技術を扱っているため、他部署とは独立した敷地を持ち、塀で囲われている。中には事務所兼実験棟である五階建ての通称『事務所棟』と、業務用設備の実験専用スペースである二階建ての『別棟』の、二つの建物がある。 「勤務時間は朝の九時から夕方の五時半までなんですけどね、時間外の夕方六時から翌朝の八時まで、建物に入るドアは各々一箇所に制限されて、オートロックが掛かるんですよ。それで、その間は建物に入るためには、守衛も含めて社員各人が所有しているIDカード、もちろん僕も持ってます、これをドアの横に設置された機械のスリットに通して、ロックを解除しなければならないんです」 太西は財布からクレジット・カードのようなものを出して見せた。『IDカード・社員証明書』と書かれたそれは、社名のほかに太西の顔写真、氏名、コード番号、生年月日などが印刷されている。裏面は、磁気テープの下に細かく注意事項などが記載されてある。 「そのため時間外に建物に入ると、入館時刻と社員のIDが記録されるんですよ。ただし、建物から出る場合はカードは必要ありません。ロックの摘みを捻るだけでドアが開けられるので、記録は残らないんです」 「なるほど、建物に入る時はチェックするが、出るのは自由ということか」 「そうです。しかし敷地内から外に出る時にチェックが入ります。敷地は塀で囲われていて通用門は一箇所だけなので、必ず守衛室の前を通らなければならないんです。残業者の退社時刻は守衛さんがそこでチェックします。警備システムが常時働いていますので、もし塀を乗り越えようとすると、警報が鳴り響くようになっています」 「なるほど。守衛がチェックするのは時間外に退社する人だけなのかい?」 「いえ、もちろん常時、来客の入退館記録や不審者が出入りしないかのチェックは行なっています。商品開発部は従業員数もそう多くないし、守衛のモリさんはどうやら全員の顔を覚えているようでして。ここでさっきの話に戻ります。セキュリティ・システムと守衛さんの言葉を信じるなら、石田さんは敷地内から出ていない筈なんです。でも、居なくなってしまったんですよ」 太西は、つい力説してしまった。そうと気付き、口調を平常に戻す。 「五月二十日の水曜日、この日に六時以降の残業届けを出していたのは石田さんを含めて四名だったそうです」 「へえ、意外と少ないんだね」 「ええ、いつもは残業する人はもっと多いんですけど、水曜日はノー残業デーになっていまして、この日は少なかったんです。それで残業していたのは四名の筈なんですが、夜中に守衛の前を通って帰ったのは三名で、石田さんは通らなかったんですよ」 「届けは出したけど残業はせずに、午後六時前に退社したってことは?」 「考えられません。この記録用紙を見てください(別表参照)。石田さんは18時04分に別棟に、20時11分に事務所棟に入った記録が残されています。それに、残業していた同じチームの人にも目撃されています」 |
1998/05/20 | ジムショトウ | ベットウ |
18ジ | 18:04 イシダユウシ 894029 | |
18:57 キシモトミユキ 951016 | ||
19ジ | 19:06 キシモトミユキ 951016 | |
20ジ | 20:11 イシダユウシ 894029 | 20:43 フジワララン 843037 |
21ジ | 21:14 フジワララン 843037 |
用紙の表には事務所棟と別棟の欄があり、入館時刻と共に三名の氏名とIDコードである六桁の数字が記されている。一名、片山という者がセキュリティ・システムの記録には残っていないが、通用門を通って帰った時刻が守衛に確認されているので、残業していたのは届けの通り四名であることに間違いはないようだ。
「じゃあ、石田はどこかに隠れていて、翌朝に外に出たとか」 「それもないと思います。この日以降、通用門を通る石田さんの姿は守衛さんに見られていません。残業している筈の石田さんが退社しないんで、守衛さんも気に掛けていたみたいです。塀を乗り越えるのも無理だし……」 「なるほど。それで、残業していた四名っていうのは、どういった人たちなんだい?」 「ええっと、皆さん石田さんと同じ、商品開発部のエコロジー・チームの方々です」 エコロジー・チームは、ソーラー発電や生ゴミ処理、ノン・フロン空調など、省エネや環境問題をテーマにした技術開発を行なっている部署である。石田はそこのサブリーダーに当たり、残業した四名の中にはリーダーの片山も含まれている。 「ほう、リーダーがいるなら話は通しやすいな。いや、今の話を聞いていて感じたんだが、敷地内はくまなく探したってわけじゃないようだね」 「一通りは見回った、とは聞いていますけど」 「じゃあ、まだ一つの可能性は完全に消去されていないわけだ。よし、太西君。片山リーダーに言って、当日残業していた皆を集めてもらえないか。守衛のモリさんもだ。明日の夕方、会議室でも空いていれば使わせてもらおう。まずは事情聴取だ。分かったね」 「えっ……は、はい!」 太西は慌てて受話器を掴んだ。今、夜の八時前。まだ片山も会社に残っているだろう。 次の日、火曜の夕方五時半過ぎ。商品開発部近くの交差点で太西が待っているところに、ヒロがタクシーでやって来た。 「駅からの道が分からなくてね。タクシー代は後で請求するから」 今回の経費は誰が出すんだろう、と心配しながら太西はヒロを敷地内へ案内した。 「あちらの右手に真新しい五階建ての建物が見えますよね。あれが事務所棟。その向かいの、ちょっと薄汚れた二階建てが別棟です」 事務所棟の玄関ロビーに向かうと、作業着姿の男性が待ち構えていた。 「どうも、エコロジー・チームのリーダーの片山康之と申します。この度は石田のことでお騒がせしております。どうぞ、こちらへ」 片山には、ヒロのことを警察関係者と伝えておいたので、協力的な応対だ。片山に案内され、エレベーターの向かい側の階段を上って、二階の応接コーナーらしきスペースに通された。六人掛けのテーブルの周りには仕切りが設けられており、このようなコーナーが八つほどある。仕切りはあってもそう高くなく、けっこうオープンな設計だ。 「あいにく会議室が一杯で、こちらでよろしいですか。あとの二名もすぐ参りますので。あ、蘭さーん、美雪ちゃん、こっちこっち」 向こうで何やら厚手のファイルらしきものを運んでいる二人に、片山が声をかけた。 「あ、リーダー、もうちょっと待ってください。いま、これ運ぶの、蘭さんに手伝ってもらっているところなんです。もう重くって」 若い方が答えたが、当の本人は二冊しかファイルを持っていない。手伝わされている方は三冊持たされている。 しばらくして帰ってきた二人に向かって、片山は我々を紹介し始めた。 「蘭さん、こちらは情報システム部の太西君。と、そしてこちらが……」 「僕が今回、石田さんの捜索を特別に任された、探偵のヒロ・前田です。こんにちは、蘭さん。初めまして」 隣の男が『探偵』と自己紹介するのを聞いて、片山が怪訝そうな顔をしてこちらを見たが、太西は知らんふりを決め込んだ。 「どうも、藤原と申します。探偵さん……ですか。今日は聞き込みか何か? 初めてですわ、こういう経験は。でも今、実験中ですので、お話は短めにお願いしますわ」 藤原は、東京の下町には珍しい言葉使いで答えた。ちょっと嫌味な受け答えだ。近付きがたい独特の雰囲気を持っている。きっと友達は少ないに違いない。太西がそんなことを考えていると、続けて片山がその隣を紹介しようとした。 「そして、こっちの子が……」 「ああ、あなたが美雪ちゃんですね。ヒロです。どうぞよろしく」 「あ、はい、岸本です。は、初めまして。あの、私も、こういうのは初めてで……」 一方こちらは、華奢で愛くるしいタイプだ。『美雪ちゃん』と、ちゃん付けで呼ばれるのも頷ける。自分の職場にもこんな人が居れば毎日が楽しいだろうな、と太西は思った。 因みに、ヒロは相手のことを周りの人がいつも使う通り名で呼ぶことにしている。これは相手に、君のことは何でも知っているよ、という印象を与えるためらしい。岸本はどぎまぎした答えしか返せず、完全に探偵のハッタリに呑まれているようだ。気は小さい方なのかも知れない。 それぞれの紹介も済んだところで、腰を下ろして事情聴取開始かと思ったが、一人足りない。ヒロが片山に声を掛けた。 「片山リーダー、申し訳ないが守衛のモリさんもこちらに呼んでもらえますか」 「ああ、そうでしたね。少々お待ちください」 片山は作業着の右ポケットから社内用携帯電話を取り出し、持った手の親指でもたつきながら四桁の内線番号を押した。 「ああ、モリさん。皆さん集まってますので、事務所棟二階の応接コーナーまで来ていただけますか」 そう言い終えて片山は電話を切ったが、今度はどこからか別の電話が掛かってきた。 「はい、片山です。えっ、ドイツの学会の件? あとで連絡しとくよ。電話番号は?」 片山は携帯電話を肩と顎の間に挟み、空いた手でペンと手帳を取り出した。就業時間も終わったというのに、最先端技術を担当しているリーダーともなると、論文やら研究発表やらでお忙しいようだ。電話番号以外にも何やらメモを取っている。片や、いつも暇を持て余している探偵の方を見ると……彼は片山の一挙手一投足をじっと見つめている。早く用事を済ませろ、とでも思っているのだろうか。 片山は電話を切り、岸本に声を掛けた。 「石田君が行く筈のドイツの学会だけどさ、チェアマンの名刺、今持ってるかな」 まだ仕事の話は続く。なかなか事情聴取が始められない。石田の失踪より、やはり仕事が優先なのか。 「あ、私のスーツのポケットに入ってます。すぐ取ってきますから」 岸本はそう言い置いて、階段の隣のロッカー室に駆け込んでいった。そちらの方を見遣っていると、その手前にあるエレベーターがチンと鳴ってドアが開き、守屋が腰を擦りながら、ゆっくりとした足取りで出てきた。 すぐに岸本もハァハァと息を切らしながら戻ってきた。片山は名刺を受け取ると席を外し、またどこかへ電話を掛けだした。 片山が電話を掛けている間に、ヒロは守屋に話しかけた。 「ああ、モリさん、探偵のヒロ・前田です。どうも申し訳ありませんね、今日もこれから夜勤なんでしょう」 「いえいえ、大丈夫ですよ。夜は慣れておりますから、お気になさらないでください」 片山の電話も終わり、ようやく事情聴取が開始となった。ヒロは当り障りのないことから聞き始めた。 「参考までにお聞きします。まず、美雪ちゃん。あなたは普段、どういったお仕事を?」 「あ、はい、私は主に事務を担当しております。ワープロ打ちや端末入力が殆どです」 「ありがとう。では、蘭さん。蘭さんはどういう? あなたも事務ですか」 「いいえ、とんでもない。私は石田のもとで主に実験担当ですわ。今は、業務用の生ゴミ処理機の開発に従事しております」 片山は言わずと知れたチーム・リーダー、守屋は守衛である。 「まず皆さんに、石田さんを最後に見られたのはいつなのか、お聞きしたいのですが。まずは片山リーダーから」 ヒロは、敢えて記録のことは黙っておいた。記録と証言との間に矛盾点がないか、照らし合わせるためだろう。もちろん既に知られていることかも知れないのだが。太西はこっそり、入館記録表と手書きの退社時刻が記された用紙に目を落とした。 「そうですね、確か夕方の六時前ぐらいです。三階にある給茶器のところに彼が来たのを見かけました。私はずっと三階の事務所で仕事をしていたんですが、私の机から給茶器コーナーはちょうど見通せるんです」 「なるほど。事務所にはお仕事でずっと居られたのですか?」 「ええ、夕方の四時ごろからずっと。トイレとお茶以外には席を外しませんでした。自分が担当しているテーマの論文の締め切りが近いんで、パソコンでデータ整理をしていたんです。右手でしかキーボードを叩けないんで、帰りは夜遅くになってしまいました」 夕方から帰るまでずっと席にいて建物に出入りしなかったのなら、セキュリティ・システムに記録が残らなかったのも頷ける。ヒロばかりに喋らせるのもどうかと思い、太西も口を挟んだ。 「へえ、パソコンですか。僕ならパソコンなんか指一本ですよ。もちろん文字通り、人差指一本でしかキーボードを叩けないという意味ですけど」 本当は、太西は両手を使ってブラインド・タッチでキーボードを叩けるのだが、場を和ませようとしてそんな冗談を言ってみた。誰も笑わなかった。ヒロは構わず続けた。 「お帰りになられたのは何時ですか?」 「ええっと、十時半ぐらいには終わって、ちょっと机を片付けてから一階のロッカーで着替えて……何だかんだで十一時近くだったと思います」 守衛の記録では、片山は22時50分に通用門を通って帰ったことになっている。 「分かりました。では、蘭さんはいかがですか」 「私はサブリーダーの石田に言われて、ずっと別棟で実験をしてましたわ。事務所棟には帰る直前まで入ってないので、そちらでのことは良く分かりません。石田は六時ごろから別棟に来ていたと思います。その時分から七時ごろまで、時々実験の様子を見に顔を出してくださいましたので。その後、八時過ぎに別棟を出ていかれるところを見かけました。私は九時十五分ぐらいに一旦事務所棟に戻って、すぐに帰りましたわ」 持っている紙に目を落とすとIDカードの記録では、石田は別棟に18時04分に入っている。そして、八時過ぎに別棟を出てそのまま事務所棟に向かったのだろう。20時11分に事務所棟に入ったという記録とも合致する。一方、藤原は21時14分に事務棟に入っている。守衛の前を通って帰ったのが21時20分となっているので、事務所棟に入ったのは退社間際だということになる。 「帰り間際に事務所棟に戻られたのは、どういった理由で?」 「もちろん、一階のロッカー室に着替えにですわ」 「なるほど、別棟にはロッカーはないのですね。分かりました、ありがとうございます。では次に、美雪ちゃん。あなたはいつごろ石田さんを?」 「はい、私が最後にお会いしたのは七時くらいだったと思います。石田さんから内線電話が掛かってきて、私、別棟まで出向いたんです。それで、藤原さんと一緒に居られるところを抜けて頂いて、石田さんから手書きの原稿を受け取りました。その後すぐ私は、四階のOAコーナーに戻って、原稿をワープロに打ち直していました」 なるほど。18時57分に別棟に、19時06分に事務所棟に入ったという岸本の入館記録とは食い違っていない。 「別棟で石田さんがどういう仕事をされていたか、ご存じですか?」 「はい、藤原さんが取られた実験データを整理していたみたいです」 岸本の言葉に藤原も頷き、同意を示した。 「そう、石田は私の実験データをもとに、論文を書こうとしていましたわ。何でもこの秋にドイツで研究発表会があるんで、それに間に合わす必要があるとか。私も海外出張というものを一遍経験してみたいですわ」 藤原は、直属の上司を少々妬んでいるようだ。恐らく、サブリーダーである石田の方が藤原よりも年下だということが、理由の一つなのだろう。一方、岸本はそんなことに頓着している様子もない。 「美雪ちゃんは何時ごろまでお仕事を?」 守衛の記録では、20時40分に退社となっている。 「はい、八時半ごろです。石田さんの分はまだだったんですけど、片山リーダーの分のワープロが打ち終わったんで、三階の事務所までお届けしたんです。そしたらリーダーが、もう帰っていいって言ってくださって」 「ええ。私が、若い女性はあんまり遅くまで働いちゃだめだよって言ったんです。私のようなオジサンなら問題ないんですけど、この辺りは夜はちょっと物騒ですから。そうしたら彼女に、そういうことはほかの女性社員たちにも言ってあげないとひいきって言われますよ、ってたしなめられましたけどね」 片山の言葉に、藤原はそっぽを向いていた。きっと、毎日遅くまで残業させられているのだろう。太西がそのことを小声で尋ねると、夕食は実験室でタコヤキぐらいで済ます日も多い、と藤原は愚痴をこぼした。 「なるほど、分かりました。では、今お伺いしたこと以外に何かありませんか。石田さんに限らず、六時以降に残業していた他の誰かを見かけたことがありましたら、その時刻と場所を教えて頂きたいのですが」 しばらくは皆、返事がなかった。 「いや、みんな別々に仕事をしていましたもので、どこで何をしていたかはちょっと……」 片山リーダーの言葉に、他の者も頷いた。 「そうですか、まあ仕方ない。さて、ここから本題に入ります。セキュリティ・システムの記録や皆さんのお話から、石田さんが六時以降も敷地内にいたことは明らかです。そして、モリさんの証言や警備システムを信じれば、当然石田さんは今も敷地内にいることになります。石田さんのロッカーは空っぽだったそうですね。つまり、スーツも無いけど作業服も無い……ということは石田さんは作業服を着たままかもしれない。このことからも、敷地内から出ていない確率は高いと言えます」 「ええっ、そんなバカな……」 皆が口々に異を唱える中、ヒロ探偵は続けた。 「まず、その可能性を潰すべきだということです。監視されたエリアからいかに抜け出したかを検討するより、こちらが先です」 確かに、一つずつ潰すのが正攻法だろう。 「片山リーダー、この敷地内に石田さんが本当に居ないか、隅々まで探されましたか?」 「いや、一通りはチェックしましたが……。もっとも、人が明らかに入れないだろうという所は見ていませんよ。例えば、換気ダクトの中とかは」 ふっ、と誰かが失笑を漏らした。確かにそんな所まで確認する必要はないだろう、と太西は思った。 「なるほど。では人が入れそうな所は全てチェックしたのですね? 抜けはないですね?」 「そうですね、ないと思いますけど……。あと見ていない所と言えば、生ゴミ貯蔵庫ぐらいかなあ。蘭さん、最近貯蔵庫は開けて見ました?」 「い、いえ。見てませんわ」 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 何でその貯蔵庫をチェックしてないんですか」 ヒロが叫ぶのも無理はない。太西も今、聞いて驚いているところだ。確認していないとは、一体どういうことだろう。 「いや、あそこは簡単には入れませんから」 片山リーダーが答えた。 「生ゴミ貯蔵庫は事務所棟一階、実験室の床下にあるんですけどね、通常は人は入りません。食堂で出た生ゴミがダスト・シュートを通って一旦そこに集められます。そしてストックされたゴミは、定期的に地下のコンベヤで別棟の生ゴミ処理機に運ばれます。それは今、藤原が担当している業務用の生ゴミ処理機の実験も兼ねています。実際に使用してみて、使い勝手や処理能力などを確認するんです。間違いないよね、蘭さん」 「はい。おっしゃる通りですわ」 「それで! そこに人が隠れる可能性は?」 片山と藤原の間延びしたやり取りに焦れて、ヒロは口を挟んだ。 「ええ、ダスト・シュートは人が通れるほどのスペースはありませんし、コンベヤの方はその先は粉砕機と処理機に直接繋がっていますので、別棟の方へ抜け出ることもできません。そして貯蔵庫ですが、実験室の床にメンテナンス用のハッチがあります。でも、このハッチはかなり重量がありまして、簡単に開けられないように少なくとも男手が二人以上は必要な設計になっているんですよ。ですから、石田が一人でその中に隠れたり、何らかの事故で落ちたりすることはないと思いますよ」 「何を言ってるんですか!」 ヒロは叫んだ。 「事故だとは限らないじゃないですか! さあ、行ってみましょう」 ヒロは立ち上がり、階段の方へ駆けて行った。残った者も、ワン・テンポ遅れて後に続いた。 一階の実験室内。床の隅に、一・五メートル四方ほどのハッチが切ってある。太西は、ヒロと力を合わせてハッチを開けることにした。 「いくよ太西君、せーの!」 一度目はタイミングが合わず、うまく持ち上げられなかった。 「全体を持ち上げようとするより、ハッチの一辺を支点として、その反対側を二人で持ち上げた方が楽ですよ」 片山がアドバイスをくれた。口を出すだけじゃなくて手伝ってくれたらいいのに、と太西は思った。他の者は周りで見守っているだけだ。守屋なんかは、今ようやくたどり着いたところだ。 「ああ、この蓋ですか。ここはわしも中を見たことはありませんな」 皆、のんきに構えていたが、ヒロの眼差しは真剣だった。 「太西君、もう一度だ。いくよ!」 一辺を支点に、重いハッチが開いた。かなりの厚みだ。二人はそれを壁にもたせ掛けた。微かに生ゴミ臭が漂う中、床を見ると蓋は四角なのに、丸い大きな穴がぽっかりと口を開けていた。蓋が中に落ちないための工夫だろうか。 「暗くてよく見えないな……。誰か懐中電灯を持って来て頂けませんか」 「あ、私、取ってきます」 岸本が小走りに駆けて行き、すぐに息を弾ませながら戻ってきた。 「はぁ、はい、どうぞ、探偵さん」 懐中電灯を受け取ったヒロは、すぐさま貯蔵庫の中を照らしてみた。 「居た! 人が倒れているぞ。おい太西君、救急車だ、早く!」 ヒロの大きな声が館内に響き渡った。 作業着姿の石田を乗せた担架が、救急車の後部に吸い込まれ走り去っていった。貯蔵庫には悪臭防止のための換気設備が備えられていたため、石田は窒息することもなく、幸い一命は取り留めたようだ。しかし頭部に打撲の跡があり、意識は不明のままだった。 ヒロは、皆にもう一度集まるよう指示を出した。 「片山リーダー、さっきの応接コーナーではなく、どこか会議室は使えませんか。皆さんに大事な話があります」 片山らが空いていた会議室へ入っていく列から、ヒロは太西を引っ張り出して、耳元で囁いた。 「太西君、君は容疑圏外にいると信じているから聞くけどね。彼ら四人の中におかまはいないだろうね」 「は? オカマ……。いや、いませんよ。皆さん、れっきとしたノーマルな男女です」 男勝りの逞しい女もいないし、女言葉を使うようなナヨナヨした男もいない。なぜこんなことを聞くのだろう、と太西は怪訝に思った。 太西を残し、ヒロはさっさと会議室に入っていった。彼はさっき、事故とは限らないと言い、容疑という言葉も使った。一体何が起こったというのだろうか。 |
さて、問題は一つ。石田を貯蔵庫に閉じ込めた犯人は誰か? 探偵のヒロが見聞きした情報で、特定して欲しい。 ちなみに、ヒロと太西は犯人ではない。 容疑者は、片山、藤原、岸本、守屋の四人である。 あまりにも簡単で申し訳ないが、読者の健闘を祈る。 解決篇へ! |