後期クイーン的問題
 
本格ミステリ、ことにクイーンのようなフェプレイを標榜するパズラー派が必然的に直面する(といわれる)、創作上の “永遠の課題/悩み”。本格ミステリが作品上で真のフェアプレイを実現するためには、その作品世界が完結した公理系である必要があり、同時にそれを読者に証明する必要がある。そのためには小説そのものよりも上位に位置する何かが必要だ。……たとえばそのための装置が“読者への挑戦”である(いわゆる“法月論文”のポイントの1つ)。しかし、読者に対しては作品外に“挑戦”をおけばよいにせよ、作中の探偵にそれを見せることはできない(挑戦、は作品の外だから)。同様に、たとえばある1つの手がかりが真の手がかりなのか、それとも犯人が置いた偽の手がかりなのか、という問題に関して、作中人物である探偵には論理的に判断ができない。作中人物が作品外にある作者の真意を諮るのは、それ自体矛盾であるからだ。故に論理的には“作品内世界には、論理的に唯一ありうる犯人、という存在は論理的にありえない”ということになり、フェアプレイなパズラーという作品形式自体、大いなる矛盾を抱えてしまうのである。クイーンがこの問題に対してどの程度自覚的だったかは不明だが、「災厄の町」に始まるいわゆる 「ライツヴィルもの」における主人公クイーン氏の葛藤がそれと指摘されることが多い。日本のミステリ作家・法月綸太郎がこの問題に関する第一人者であり、自身もミステリ作家としておおいに悩んでいるらしい。ともあれこの後期作品群は、そのせいかパズラー色は薄くなった反面、小説としての深みは増し、主人公クイーン氏も単なる天才探偵ではなく奥行きのある人 間として苦悩する姿を見せる。その辺りを好んで、後期作品を推すマニアも少なくない。
 
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