活躍する人々

喘息になやみ、あるいは喘息を克服しながら活躍している方はたくさんいます。

最終更新日: 2004/09/05.

竹下 景子テレサ・テン中島 敦岡村 理植村 未来

竹下景子

女優の竹下景子さんは3、4歳のころから小児喘息で、よく病院へ行き点滴を受けていました。現在のはつらつとした様子からは、見当もつきませんが、小学生のときは、子供ながら弱くて小さな自分の体にコンプレックスを感じていたそうです。

幸い、彼女の喘息は大人になる前によくなり、現在の活躍があるわけですが、すっかり治ったと思っていたところへ、忘れていた喘息発作が起こりました。テレビの仕事で海外へ行ったあとに一回、自宅が引っ越した後に1回。いづれも大変に疲れて、体調をくずしていたときのようです。

比較的、軽症のぜんそくのようですが、それまで飼っていたネコを泣く泣く手放すなどして喘息にも、前向きに取り組んでいるようです。


テレサ・テン

1995年5月 「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」など、多くのヒット曲で知られる歌手のテレサ・テンさんが喘息発作のためタイのホテルでなくなったのは、まだ皆さんの記憶に新しいところだと思います。

当時の新聞によると大発作を起こしてホテルの部屋から飛び出し、従業員に助けを求めたそうですが、病院に着いたときには、すでに意識がなく、30分後には死亡していたそうです。

タイへは休養のために行ったと話していたようですが、仕事が忙しくて発作があっても無理をしていたのでしょうか?日本でも毎年、1年間に5000人以上もの人が喘息でなくなります。彼女のことは忘れてはいけない警告として我々の心の中にきざんでおきましょう。アジアの歌姫のご冥福を祈ります。


中島 敦

「山月記」で知られる小説家の中島敦(なかじま あつし)は明治45年5月5日生まれ。そのころはなかったと思いますが、子供の日生まれ。昭和9年 東京帝大国文科(今の東大文学部)を卒業後、女子校の教師をやりながら文学活動に入りましたが、このころから喘息に苦しんでいました。

昭和16年 結局、転地療法のために退職。戦時中であり、日本語の教科書を編纂するためにパラオへ渡航しました。名作「山月記」は翌年の発表です。これが雑誌「文学界」で評価され、いっきに文学活動へと、専念する彼でしたが、惜しくも、同年12月に喘息と肺炎のため亡くなっています。33歳の若さでした。


故人が続いたので、次は明るいやつを。

岡村 理(おかむら おさむ)

昭和58年7月生まれだから、平成9年6月現在13歳。大阪生まれの彼は、生後まもなくから喘息で、平成4年には大阪赤十字病院に長期入院となってしまいました。

以前から絵が上手だった理君は院内学級に転校後、絵本を書き始めました。そして「ぜんそくのぼく。青空がほしい」などの投書が新聞に載ったところ、群馬の小学生から励ましの手紙が届きました。

この返事を手作り絵本にまとめた「おてがみありがとう」が日本の絵本賞(第15回)を受賞。その後も電信電話児童画コンテスト2席(平5年度)、大阪府青少年読書感想文コンクール(特選,第40回)〔平成6年〕などの受賞を続け、6年生のときに書いた「びょういんの木」が汐文社より出版されています。

H9年10月 彼の書いた絵本、「びょういんの木」が映画化されることが決まりました。公開は来年になるようです。


喘息をよくするためにスポーツをするというのはよく聞きますが・・・

植村 未来(うえむら みく)

97年6月現在13歳。東京都出身。幼いころから喘息で苦しみましたが、父の仕事の関係でハワイへにうつりすみ、そこでサーフィンに熱中。

カリスマ的サーファーのバッファロー・ケアウラナ一家とも家族ぐるみの交際を深め、とうとう地元でもトップクラスのサーファーにまでなりました。

平成8年6月バッファロー・ビッグボード・サーフィン・クラッシックinジャパンに参加のため一時帰国しました。現在ハワイ、オワフ島在住です。

喘息をよくするためにスポーツをするというのはよく聞きますが、サーフィンですって。

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以下は未確認情報。喘息でも活躍する人々
スピードスケートの清水選手、ジャイアンツの村田捕手、日本ハム・小笠原道大捕手、鳴戸親方(元横綱 隆の里)、長渕 剛、漫画家の小林よしのり。このほか喘息があっても活躍している方の情報をお持ちの方、ぜひ教えて下さい。

メールはこちらまでE-mail  jiei@cc.rim.or.jp

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