春先の吾妻耶山に登ってから、いつの間にか梅雨明けとなっています。間が開いてしまうとどうしても億劫になって、だらだらと過ごす事となってしまいますが、少しでも体を動かそうと、なまった体に鞭打って出発しました。ガイドブックを見ながら決めたのは、以前一度歩いたことのある高川山で、気軽なコースです。
久しぶりの初狩駅で降りて、右手から線路を潜り、民家やお寺の間を道標に導かれて進んでいくと、やがて舗装路は山の中へと入って行く。その出来事が起こったのは、駅から僅か10分前後のこと、舗装路が山中に入り緩やかに山腹を登り始めた時のことだ。頭上の藪の中で、ガサガサという音と動物の荒い息遣いの音を聞いて、大きな犬がいるのかなと思った。舗装路は山腹を緩やかに登り、その先でカーブして折り返してこちらの方に戻ってくるので、上の道を歩いていた犬が藪にでも入ったのだろうと。ガサガサという音と、ハッハッという息遣いの音を通り越してしばらく進んだ頃、背後の舗装路にそれは唸り声と共に猛然とこちらに驀進して来た。黒くて丸い体、喩えは変だがオヤジの高いびきのような咆哮。まさしく熊がこちらに突進してきているのである。
体が咄嗟に反応していた。つまり背を向けて逃げていた。最初は30メートルくらいあったのだろうか。しかし、唸り声はどうしようもなく背後に迫ってくる。後ろから襲い掛かられると為す術も無いと、走りながら振り向いた。もう数メートルの所まで来ていた。そして、どうやって戦うか考え始めたころ、熊は道路を外れ反対側の藪の中へと走り去った。
ああ行ってしまったと思い歩を進めると車道がカーブしている地点である。折り返せば、最初ガサガサ音がしていた地点だ。普通は熊に遭うと中止して引き返すのだろうかとも考えるが、2回も出ないだろうとも思う。根拠は無い。ガサガサ音のしていたあたりの、今度は上を歩いていく。その時、頭上でハッハッという音を再び聞く。見上げると一本の杉の木の上に、小さな黒い影がしがみついており、音はそこから聞こえてくる。それは子熊の精一杯の威嚇のようでもあり、恐怖の息遣いの様でもあり、なるほど、母熊は子供を木の上に逃がし、自らは子供のいない逆方向に走り去ったということだろうか。これにちょっかいを出していたら再び出現しかねないので、静かにその場を立ち去った。
舗装路はあとしばらく続く、そしてシイタケの栽培場らしきあたりを過ぎて登山口に立つ。そこには熊出没注意の看板がある。そういえば、初狩駅から民家の方に入っていくあたりにも看板があったことを思い出した。確かにまだ真新しい看板であった。彼らの為にも不幸な遭遇が今後起こらないよう祈った。
登山道に入ると、道はしばらく植林地の中をゆったりと登っていく。さすがに周囲に気を配りながら、時々手を叩いたりしながらの登りとなる。道は折り返しながら高度を上げ、やがて男坂女坂の分岐に出る。男坂をとると、道は傾斜を増し、尾根上を登るようになる。小さく折り返しながら、少し岩混じりの直登が出てくると程なく女坂の道がゆったりと合流してきた。その後は自然林の中のゆったりした登りとなり、少々複雑な地形の中を僅かで山頂であった。
山頂は以前来た時の記憶とあまり変わりは無かったと思う。それほどはっきり覚えている訳ではないが、岩がゴロゴロしていた記憶があり、それは確かにその通りであった。富士山は正面に見えるが霞んでおり、また山頂付近は雲の中だ。しばらく休んでいると山ガールが2人登って来た。早速熊に遭わなかったか聴いてみる。遭わなかったと判ると自分の経験が口をついて出る。多少得意げに語っていたかもしれない。
山頂からは田野倉駅へと下る。途中、大月駅や禾生駅への分岐がある。この山は沢山の登路があるが、大月駅へは長い行程だし、すべての道が歩きやすいかどうかはわからない。大月駅への分岐から右に急坂を下り、禾生駅への分岐を分けると道は山腹から谷沿いに移って、やがて中谷の集落に出た。田野倉駅へは30分ほど、初狩駅側と違い日射しの当たる道で、いつの間にか晴れ割った空は初夏の日射しがじりじりと照りつけ、もう低山の季節では無いよと告げているようだった。
田野倉駅からの富士急は、トーマスランド号の電車がやってきました。短い時間でしたが、ちょっと楽しい車内でした。しかし、今日はちょっと大変な経験でした。それも山中のことではなく、登山口へのアプローチでのことでした。10分ほど遅れて同じコースを歩いて来た彼女たちは影も形も見ていないので、まさにその時間にいたというだけのことでしょう。今後も絶対に会うことは無いとは言えませんが、かといって鈴は喧しいのでつけたくないのです。
本文中の写真
登山口付近の看板(残念ながら遭遇後)
山頂からの富士は雲の中
田野倉駅からのトーマスランド号